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【ショートショート】見慣れない筆跡

 見慣れた冷蔵庫。見慣れない筆跡。
 気味が悪い。冷えた感覚が背筋に走る。
 くしゃりと丸めて、ゴミ箱に投げた。

 一体誰が——、どうして——、大学で授業を受けていても、それしか考えられなかった。

 一人暮らしの大学生の、なんの変哲もない冷蔵庫、のはずだった。
 今日の朝までは。
 それなのに、今朝見た冷蔵庫には謎のメモ。
 誰がいつ、どうして書いたかもわからないメモ。

「どうしたー? 今日暗くない?」
「……いやぁ、別になにも。ちょっとだるいかも、くらい」
 なんだか、言っちゃいけない気がした。
「雨だしなぁ。よし、カラオケでも行く?」
「なにがよし、なんだか。でも悪くない、乗った!」

 授業が終わってカラオケに行って、歌って笑って。
 そうしているうちに謎のメモのことはすっかり忘れていた。
 再び思い出したのは、帰って冷蔵庫を開けて独り言をこぼしたとき。
「あ、たまご買うの忘れてた」
 何気なくこぼしてしまった独り言に、急に背筋が冷えた。
 あっ、と今朝のことが一気に駆け巡り、ゴミ箱から拾い上げた丸めたメモ。

『たまご』

 見慣れない筆跡で書いてあるそれに、恐怖と同時に気が抜ける、体験したことのない気持ちになる。
 買い物メモ……?
「いやいやいや、なんで?!」
 一人の部屋に虚しく盛大に響くツッコミの声。
 もうちょっとこう、なんだろう、『殺してやる』とか『死ね』とか、そういう類のものだったなら、恐怖体験として話のネタにはできそうじゃないか。
 なのに、書いてあることは『たまご』。
 知らない間に誰かが冷蔵庫をチェックしているんだろうか。
 ……それも怖い。でも『たまご』って。
 なんだ、どうすればいいんだ。
 どうすればいい、なんてわかるはずもない。

 そうだ、明日。明日はどうなるんだろう。
 買い物メモなら怖くない。いや、怖いけど。内容は怖くない。
「……むしろ、助かる?」
 うん、そうかもしれない。怖いけど。
 楽観的すぎるかもしれない。でもとにかく明日の朝、なにか起こるか待つことにしよう。


 次の日の朝、目を覚ましてすぐにはボーっとしていた頭に、ハッとメモのことを思い出す。
 起き上がって、少しの緊張を抱えて冷蔵庫に向かう。
「……あ」
 見慣れた冷蔵庫。昨夜はなかったメモ。

『たまご、忘れない』

 思わず笑ってしまう。
 しかし、笑っている場合じゃないと、直後に気付く。
 このメモを書いた誰かは、昨日たまごを買い忘れたことを知っているのだ。
 やっぱり気味が悪い——、とは思いながらも『たまご、忘れない』を頭の中で復唱した。



 それから数週間。
 気味が悪い、おかしい、と確かな違和感を抱えながら、それでも実は謎のメモとはうまく生活できていた。
 あるときは買い物メモ、あるときはレポートの提出期限、あるときはゴミの回収日。
 連日のこともあれば、2、3日空くこともあったが、朝のルーティンのように毎朝冷蔵庫のメモを確認するようになった。
 奇妙なことに、謎のメモに助けられながら生活していたのだ。
 それは生活が見張られていることを示していたのだろうけれど、それが誰なのか、どうしてなのかは、極力考えないようにした。
 考えてしまえば、それはもうただの恐怖でしかなくなってしまう。
 だから「助かる」「便利だ」と思い込もうとしたのだ。
 誰にも言わずに。ある種、小さな楽しみのように。


『明日はデート!』
 謎のメモとの生活にも慣れたある日、大学から帰ると冷蔵庫に貼ってあったメモ。
 デートの日まで知られているなんて異様に違いないのに。
「さすがに忘れないけどね」
 大事な日だ。
 告白、しようと思っているし、とは心の中で呟いた。
 おかしなもので、すでに慣れたそれに、励まされたような気さえした。

 そして次の日。
 成功だ。
 といっても、告白は相手からだった。
 すごく気が合って、自分のことをよくわかってくれる人。



 付き合ってみたら実は全然違いました、なんてことはなく、とてもうまくいっていた。
 ただ、謎のメモとの生活もまだ続いていて、それは隠し事のひとつだった。
 ときどき不意に訪れる違和感は無視を決め込んでいるうちに、自分にとってはもはや当たり前になっていた。
 誰が書いたかもわからないメモに助けられているなんて、おかしいと思われるだろうし、浮気を疑われても困る。

 ある日、一緒に夕飯を作ることになった。
 互いのリクエストを出して、メニューを決めた。
「足りないものを確認するよ」
 冷蔵庫へと向かう。
「えーと、」
「あ、待って。メモするよ」
「うん、ありがとう」
 冷蔵庫を開けて、足りないものを伝える。
「オッケー。これで大丈夫だよね?」
 ヒラリと眼の前に差し出されたメモ。
 確認のためにひとつひとつに目を向けていたそのとき。
 ゾクリ、と背筋を伝う。

 あれ? その、文字、
「どうかした?」
「え、あ……、いや、」

 頭で考えるよりも先に、身体が反応しているようだ。
 息が詰まる。胃のあたりがキュウと縮こまる。
 メモと、眼の前にいる恋人と、交互に目が向く。


 書かれたばかりの買い出しのメモ。
 そこに並ぶ、見慣れた筆跡。




2025.06.17 もげら

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