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​鬼殺隊は鬼を「恕す」べきなのか?──『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』を観て

予約していた『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』のブルーレイディスクが、先日わが家に届いた。

​原作コミックスはすでに読んでいたので、ストーリー展開もキャラクターたちの辿る結末もすべて知っている。

だから、今回はアニメーション表現としての映像美や、手に汗握るアクションシーンの迫力を純粋に堪能するのが楽しみだった。

​ところが、観ているうち胸の奥に重苦しい塊のようなものが広がっていくのを感じた。

それは単なる「勧善懲悪」の爽快感などではなく、息のつまるような重圧感と、理不尽なまでの切なさであった。

​胡蝶しのぶが胸に秘めた姉の仇への深い怨念。

我妻善逸が突きつけられた、裏切りの兄弟子に対する痛切な葛藤。

そして、人間であった頃に苛烈な不条理を経験し、鬼へと堕ちていった猗窩座たち鬼の哀しき過去。

原作で知ってはいたが、改めて映像で見せつけられると、何だか暗澹たる思いにかられる。

なぜだろう?

自分なりに得た結論は、それが片方が「裁く者」であり、もう片方が「裁かれる者」だということだった。

もし自分が大切な家族や平穏な日常を不当に奪われた当事者になったとしたら──。

相手にどんな惨めな過去や深い事情があろうとも、私はその存在を「ゆるす」ことができるだろうか。

画面を見つめながら、私はそんな重い問いを突きつけられているような気がした。


​交わらない二つの物語──「裁く者」と「裁かれる者」の構造

​『鬼滅の刃』という作品の凄みは、敵である鬼の過去を単なる「悪」として切り捨てない点にある。

鬼たちは最初から化け物として生まれたわけではない。

貧困、病、差別、理不尽な暴力──人間界の底辺で踏みにじられ、絶望の果てに鬼へと変貌した者がほとんどだ。

​一方で、鬼を狩る鬼殺隊の剣士たちもまた、鬼によって最愛の家族や仲間を残虐に殺された被害者である。

隊士たちが刀を振るう原動力にあるのは、二度と自分たちのような悲劇を繰り返させないという使命感と、胸をかきむしるような怒りや無念だ。

​作中では、双方のバックボーンが丁寧に描写される。

だからこそ、観る者はどちらの感情にも揺さぶられ、感情移入してしまう。

​しかし、どれほど加害者側の哀しい過去が明らかになろうとも、両者が手を取り合って和解するような安易な結末は訪れない。

被害者の受けた傷はあまりにも深く、奪われた命は二度と戻らないからだ。

​裁く立場にある者と、裁かれる立場にある者──この二つの間には、決して埋めることのできない絶対的な断絶が横たわっている。

​現代の裁判制度と重なる「不都合な真実」

現実の世界の裁判もそうではないだろうか。

​裁判とは本来、被害者と加害者の双方を公平な立場に置き、法という客観的な尺度の下に判決を下すシステムだ。

そしてたとえ加害者であっても、人権を尊重し、成長過程での境遇、酌量すべき情状なども考慮され、しかるべき刑罰が決定される。

​しかし、いつも私は思うのだ。

被害者やその遺族が抱く「二度と戻らない尊厳と無念」と、法が保障する「加害者の人権尊重や手続的正義」は、本質的に永遠に相容れないのではないか、ということ。

​どれほど厳重な裁判が行われ、法的に公正な判決が下されたとしても、被害者の胸に消え失せない痛みが癒えるわけではない。

法的な「決着」と、当事者の感情的な「解決」は全く別の次元に存在するのではないか。

​人間は全知全能の神仏ではない。

公平な裁きという理想の影で、割り切れない感情の痛みを抱え続けることしかできないのが、私たち人間の限界なのだろう。

​「ゆるす」をめぐる三つの漢字と柱たちの葛藤

​「ゆるす」とはどういうことか。

日本語には「ゆるす」を表す漢字が主に三つ存在する。

それぞれの持つ意味のニュアンスは微妙に違う。

​一つ目は「許す」。

これは特定の行動や状態を認める、許可することを指す。どちらかといえば制度的・状況的な容認を意味する言葉だ。

​二つ目は「赦す」。

罪や過ちを咎めず、刑罰や責めを免除することを意味する。法的な免責や、立場上からの解放に近い。

​そして三つ目が「恕す」である。

「恕」という漢字は「心」の上に「如」と書くが、本質は「思いやる心」を意味する。

相手の立場や置かれた境遇、哀しみに深く心を寄せ、相手を丸ごと受容し、自分の感情的なわだかまりを解きほぐしていく道徳的な昇華を指す。

​では、『鬼滅の刃』において、激闘を繰り広げる柱を含む剣士たちは鬼を「恕す」べきなのだろうか。

​鬼たちの凄惨な過去を知ったとき、彼らは怨念のままに相手をただ憎み続けるべきなのか。

それとも、鬼が人間だった頃の哀しみに寄り添い、思いやって恕すべきなのか。

これは、胡蝶しのぶの姉や竈門炭治郎の考えに近いのかもしれない。

​しかし、柱たちの戦いを見るにつけ、この問いの重さに思いを馳せずにはいられない。

怒りを燃やして仇を討つことだけが正義なのか。

それとも、相手の哀しみを理解した上で抱え込むことが真の救いなのか。

彼ら自身もまた、その狭間で激しく葛藤しているように見える。

​答えのない問いを抱えて生きる

​ひるがえって、自分自身はどうだろう。

もし自分が大切なものを残酷に奪われた当事者となったとき、相手の背景を知ったからといって「恕す」ことなどできるだろうか。

​正直に言えば、私には到底できそうにない。

相手の過去に同情する余地があったとしても、奪われた痛みが消えることはなく、憎しみや怒りを完全に手放すことなど不可能なように思える。

​『鬼滅の刃』という作品がこれほどまでに多くの人々の心を捉えて離さないのは、単に迫力あるバトルアクションが面白いからだけではないだろう。

​作品の根底に流れているのは、私たちが現実社会で直面する「解決不可能な感情のテーマ」そのものだからだ。

裁く者と裁かれる者の断絶、被害者感情のやり場、そして「ゆるし」の不可能性──。

​映画を観終え、そんなことをぼんやりと考えていた。

​明快な答えなど出ない。

しかし、答えが出ないからこそ、私はこの物語を観終えた後も、自らの問題として深く考え続けてしまうのである。🐾


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