映画レビュー : チルド
主演染谷将太。そうと聞くとノータイムで見たくなってしまうのは私だけでしょうか。「廃用身」(レビュー記事がある)の染谷将太は私の中の理想的な染谷将太でしたが、「チルド」の染谷将太は生気を失ったコンビニ店員です。これも最高でした。監督は短編映画「VOID」を手がけた岩崎裕介。本映画が長編デビューとなります。本作の鑑賞後、「VOID」をYoutube公式で鑑賞しましたが、こちらも死の質感をテーマとした映画でした。こちらも合わせてみていただくと「チルド」のテーマ性がよりはっきりと捉えられるでしょう。

あらすじ
東京の片隅にあるコンビニ「エニーマート倉富町7丁目店」。店員の堺(染谷将太)は、学生時代にここで働き始めて以来、気づけば20代の大半をこの店で過ごしてきた。レジ打ち、品出し、廃棄処理——判で押したような毎日を、わずかな乱れも許さないオーナー(西村まさ彦)の管理のもとで黙々と回していく。そんな均衡は、新人アルバイト・小河(唐田えりか)の登場をきっかけに静かに崩れ始める。コンビニという小さなシステムに生じたささやかな歪みは、やがて確実に、店を、そして外の世界をも極限の空間へと変容させていく。
登場人物
堺(染谷将太) — この店の店員。学生時代にここで働き始め、20代の大半をこのコンビニで過ごしてきた。感情をほとんど表に出さず、判で押したような日々を淡々とこなす。物語の途中で、彼がオーナーの息子であることが明かされる。新人・小河の登場によって、彼の中に少しずつ変化が生じていく。廃棄処理をした店員への処分や万引き犯への対応に異議を唱える小河に触発され、堺は彼女にPOP作りを頼むなど、わずかに人間らしさを取り戻していく。
小河(唐田えりか) — 新人アルバイト。美容師を志望していて、いつか自分の店を持つことに憧れている。それゆえに、コンビニの決まり事に違和感を抱く。廃棄商品を持ち帰った店員への処分にも、万引き犯への対応にも、彼女は異議を唱える。自分の頭で考え、自分の意志で動きたいと望む彼女は、エニーマートというシステムにとって明らかな異物だ。監督が「精神的主人公として物語をドライブさせる存在」と語る通り、動かない堺に代わって物語を動かしていく。
オーナー(西村まさ彦) — この店の管理者であり、堺の親。堺と同様に感情を表に出さず、すべてをコンビニというシステムのルール順守へと収斂させる。わずかな乱れも許さない。小河が万引き犯を捕まえようとしたときには単価の低い商品を取る客は放っておくよう指示し、セールのPOPを作った小河には強い反感を示す。
基本情報をさらっていったところで、この映画の考察をしていきたいと思います。
サラダチキンから始まる映画

この映画の始まり方が、すべてを予告していると言えそうです。
コンビニの棚に陳列されたサラダチキンが、画面いっぱいにアップで映し出される。そこから物語は始まる。サラダチキンとは何か。それは鶏という一つの生き物から、機能だけを——タンパク質という栄養、すぐに食べられるという簡便さを——抽出して成形した食品。生き物としての鶏はそこにいない。残っているのは、人間にとって都合のいい機能だけ。
このファーストカットは、これから描かれる世界の原理を、一つの商品に凝縮しています。ここは、あらゆるものから機能だけが抜き出され、それ以外が捨てられる場所なのだ、と。
そして、その原理を体現する空間こそがコンビニです。作中では、コンビニがそれ自体で目的地になることはなく、どこかへ向かうための経由地点にすぎない、という趣旨のことが語られます。コンビニは、それ自体として意味を持つことを許されていない。誰かがどこかへ行く途中に立ち寄り、機能を消費して去っていく。その通過のためだけに存在している。生き物から機能だけを抜いたサラダチキンと、街の中で経由地としての機能だけを与えられたコンビニは、まったく同じ構造をしています。この映画は、資本主義が事物から機能以外のすべてを剥ぎ取っていく様を、コンビニという箱に閉じ込めて描いているのです。
猫と、女性たちと、癒しという機能
同じ原理は、モノだけでなく、人の心や関係にも及んでいきます。それが最も鋭く現れるのが、堺がマッチングアプリで女性たちと会う場面です。
ある女性との会話で、猫の話題が出ます。話が弾んでいく。あまり自身がないのですが、模様が特徴的で可愛らしいといった具合。ところがその猫は、すでに死んでいることが分かる。しかし女性は、そのことにほとんど頓着しません。すぐに新しい猫を飼っており、その猫は死んだ猫と違って毛が真っ白なのだと語る。死んでしまった猫のことは、もう彼女の中に残っていないように見えます。
ここで起きているのも、機能の抽出です。猫は「癒し」という機能を提供する存在であり、その個体が死んでも、同じ機能を果たす別の個体で代替できる。かけがえのない一匹だったはずの命が、交換可能な機能に還元されている。サラダチキンと、何も変わりません。
一方で、アプリで出会った別の女性は、もっと聡い人物として描かれます。彼女は、死んでいる状態と生きている状態に、たいして違いはないのかもしれない、という趣旨のことを口にします。これは作中でもとりわけ醒めた、そして核心を突いた台詞です。
この発言は、監督自身の代弁のように響きます。岩崎監督は対談の中で、この作品で「ヒューマニティをいかに剥奪するか」が肝だったと語り、登場人物の大半は「死んでいる」から会話が成立しないのだ、とも述べています。つまり、生と死の境目が曖昧になった世界——それこそがこの映画の舞台なのです。監督が前作の短編「VOID」でも日常に即した死を描いていたことを思えば、この主題は彼の一貫した関心なのだと分かります。
「怖いのは人間ではなくシステム」
こうして見ていくと、この映画の恐怖がどこから来るのかが分かってきます。それは、オーナーではありません。あらゆるものから機能だけを抜き取り、それ以外を無価値として切り捨てていく——その仕組みそのものが怖いのです。
これは監督が最も明確に語っていた点でもあります。岩崎監督は、「結局怖いのは人間だ」というホラーの定番の結論に懐疑的で、一人の人間ではなく「システムそのものが怖い」ことを表現したかったと述べています。作中の登場人物たちは、誰かが特別に邪悪なわけではない。オーナーも、堺も、(小河を除く)女性たちも、ただシステムの原理に従って、機能だけを見て生きているだけです。だからこそ怖い。悪意なく、淡々と、人間性が抜き取られていくからです。
この冷たさは、物語の内容だけでなく、撮り方そのものにも刻まれています。本作はFIX(固定)ショットを多用し、とりわけバックヤードの場面は監視カメラごしのような視点で撮られています。監督は「演出とカメラが前に出るべきじゃない」というマインドを語り、染谷将太も、カメラが近くにいても遠くに感じるような冷たい撮り方をされ、寄りのカットでも突き放されるような、ポツンと取り残される感覚があったと話しています。観客もまた、この店を監視カメラの目で——つまり、人間の温度を持たない機能的な視線で——見せられている。カメラの位置からして、私たちはすでに、機能だけが支配する世界の内側に置かれているのです。
終われない、という恐怖
そして、この映画の最も深い恐怖は、この世界に出口がないことです。
岩崎監督は、この物語を「終わることができない、続いてしまうつらさ」と言語化しています。作中では殺人も自死も、キャラクターが自分の意志でやり遂げる。けれど、それすらできず満ちている人が世の中には多いのではないか、と監督は言います。満ちているといっても1ではなく0、「なんかちょっと違うけどマイナスではないし充分か、まぁこんなもんかな」——その空気こそが、いまの時代とマッチしている、と。
堺という人物は、まさにその体現者です。彼は不幸せではない。20代の大半をこのコンビニで過ごし、判で押したような日々を、特に問題も感じずに回している。染谷将太は対談で、大きな恐怖を前にしても平穏を保てる堺を「最強だな」と評し、恐怖に干渉せず、それしかできないことをやり続けながら自分を保てる彼は生き物として絶対的に強い、と語っています。だが、その「強さ」は救いではありません。何も変わらないまま、終わることもできないまま、機能だけの日常が続いていく。その静かな地獄を、涼しい顔で生き抜けてしまうこと——それこそが、この映画が突きつける一番冷たい恐怖なのだと思います。

