ニーチェの「ツァラトゥストラ」と資本主義と教育
ニーチェの「ツァラトゥストラ」の引用から始まります。
『才気を俳優はもっている 。だが 、才気の良心というものは 、あまりもっていない 。俳優がいつも信じているのは 、もっとも強力に ─ ─自分の存在を大衆に ─ ─信じさせてくれる手段のことだ !俳優は 、あしたになると別のことを信じ 、あさってになるとまた別のことを信じる 。大衆と同じく 、移り気で 、変わりやすい天気のようだ 。ひっくり返すこと ─ ─それが 、俳優にとっては 、証明することなのだ 。熱狂させること ─ ─それが 、俳優にとっては 、説得することなのだ 。そして血が 、俳優にとっては 、理由のなかで最高の理由となる 。繊細な耳にだけそっと聞こえる真理のことを 、俳優は 、むなしい噓だと言う 。じっさい 、俳優は 、世間に大騒ぎをひき起こす神々のことしか信じていない 。もったいぶった道化でいっぱいなのが 、市場だ 。 ─ ─そして大衆は 、自分たちの大物が自慢である !大物たちが時の支配者なのだ 。だが時が大物たちをせかすので 、大物たちは君をせかす 。君からもイエスかノ ーをほしがる 。ああ 、君は 、賛成と反対のあいだに自分の椅子を置きたいのかな ?君は真理を愛好しているのだから 、せかせかイエスかノ ーを求める連中のために 、対抗心を燃やす必要はない !イエスかノ ーを求める者の腕に真理がぶらさがっていたことなど 、これまで一度もない 。そんなせっかちな連中がいるのだから 、君は安全な場所に帰るがいい 。 「イエス ? 」や 「ノ ー ? 」に襲われるのは 、市場だけなのだ 。』
・F r i e d r i c h N i e t z s c h e(1891).A l s o s p r a c h Z a r a t h u s t r a.(ニーチェ 丘沢静也(訳)(1967).ツァラトゥストラ 光文社古典新訳文庫)
「簡潔に説明が出来ないものは無価値」
学ぶ前に学ぶ本当の価値は分からない。にも関わらず、店に陳列された商品の如く、買う前に価値がわからない商品は、価値がないと判断し、買わないように、学ぶ価値がないとみなす、みたいな事を、内田樹さんが憂いていたことを思い出す。
ある大手のお偉いさんが、
「3行で説明できないものに価値はなし」
と豪語し、3行で説明できない、何もかもを、拒絶していたそうな。
ある程度以上洗練されていくと、正確さと簡潔さには、トレードオフの関係が生まれる。
例えば、
「ディープラーニング・深層学習が、因果関係を解明します」
これは、明らかに、嘘、である。
(精度すら高くないことも多々あるが)予測精度は高いけど、ブラックボックス、何故そうなるのか、どうしても解釈が困難なのが、深層学習なのである。
困難なりに、解釈性を高める取り組みを、データサイエンティストたちが必死になってやっているのである。
そう、深層学習のような、本質的に難しい事象を、簡潔に3行で表すには、嘘、をつくしかない。
その大手企業のお偉いさんが特別酷いかと言うとそういうわけでもない。
そんなことを謳った、大手の製品を少なからず見てきているので、ビートたけしの、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」状態なのだろう。
資本主義の原理を所構わず適用している、学ぶ前から学ぶ価値の判断ができると、盲にインプリンティングされている我々。
私はデータサイエンス講座の講師をしているのだが、ある受講生に、講座最終日、
「これから、どうしていけばいいか、アドバイスください」
と聞かれ、
「なんでもその場で判断して片付けていく傾向にあると思います。曖昧なものを曖昧なもののまま、維持しておく。複雑なものを複雑なまま、維持しておく。腹落ちしていないものを腹落ちしていないまま、維持しておく。しっくりくる何か掴もうと試みるも、指の隙間から摺り抜け、溢れ落ち、捉えられない。そんな居心地の悪さ、収まりの悪さと同居し、しっくりくる刹那まで、そのまんま放置しておく。その感覚を身につけて欲しいと思います」
と答えたことがある。
この感覚、知性の深掘り、本質の追求、精神の成熟に、必須だと痛感している。
かく言うインプリンティングされている私も、そうしていければいいなと、試行錯誤、その実戦に取り組んでいるが、まだまだ理想とは程遠い。
そんな肝要な事を、教育されずに育った人たちが大多数であり、この風潮は加速している気がする。
「学ぶ前から学ぶ価値は分からない」
だからピーチクパーチク言わず、ついて来いと、
教育を語る資格がない教える側が、悪用することも往々にしてありえる。
教える側が、学ぶ側の胸に届く存在でないと、そもそも、本源的な学びは始まらない。
超人、「ツァラトゥストラ」
うん、ニーチェ、好きです。
