小説「ヤングケアラーな私の闇は深くて愛しい」第3話[抱えきれない闇は]
第3話
図書館から帰った私は、デイサービスから祖母が戻るのが夕方だったため、家の掃除をした。稑は、私と入れ違いに友達の家へ遊びに行った。他の友達は午前中から遊んでいるらしく、私が帰る前に稑は自分で昼食を済ませていたのだった。私は、一人分の昼食を簡単に用意した。昼食を食べながら、今日図書館で会った佑のことを考えた。
ブランコから降りる時に、背中に背負ってもらったことは、今思い出しても赤面する。「佑の背中は温かくて、広かくて、安心して頼れる背中だった」佑が私を思いっきり甘やかせてくれるから頑張れている気がした。親友も、幼馴染みも、本当にありがたい存在だ。佑は、夏休み中に一緒にどこかへ行こうと誘ってくれた。その約束が実現するといいなと私は思う。自分のためだけの時間を少しでも作りたい。そう切に願う。どこかの専門家が言っていたっけ。
「痴呆は、退化ではなく進化です。忘れたいことは忘れ、忘れたくないことだけを覚えている」
というものだった。痴呆の当事者やその家族からしたらとんでもない言葉だが、その専門家は続けてこんな例を話していた。
「奥さんが痴呆になった時、一番先に忘れるのは旦那さんの顔らしいです」
我が家は母が離婚している。祖母は、祖父の顔を覚えているだろうか?もしかすると真っ先に忘れてしまったのかもしれない。もしも、私が痴呆の当事者になったとしたら、真っ先に忘れてしまいたいのは「母の顔」なのだろう。必要最低限の愛情をも与えてくれない母親の顔は、忘れてしまいたい。
痴呆が退化なのか進化なのかは分からなかったが、いずれにしても家族の体力と気力とを消耗させるものには違いなかった。自分の時間を作らないと、介護する人生そのものが嫌になってしまいそうだ。誰かに私の人生を救出して欲しいと願う。
昼食の後、私は気付いたら眠っていた。まるで大人のように疲れがたまっている中学生で、三時間ほどぐっすりと眠ってしまった。目覚めた時は、本当にスッキリとして元気が湧いてくるようだった。今のうちに夕食を準備しよう。今日は、簡単にサラダうどんにしようかな。シーチキンとコーンとカットしたレタスを混ぜて、麺汁で味付けをする。茹でたてのうどんをさっと冷やして、先ほど作った具と混ぜるだけで出来上がり。一皿でたんぱく質と野菜をたくさん取ることができる。
家の前で車のドアが閉まる音が聞こえた。そろそろ、祖母が戻って来る時間だ。玄関の呼び鈴が鳴り、祖母がデイサービスの職員の送迎で帰って来た。玄関先まで付き添ってくれる職員が、施設でどんなことをしたのか手短に説明をしてくれる。最初は、中学生の私に報告するのがためらわれたようだった。でも、今では顔見知りとなり、こちらの必要な情報も与えてくれる頼れる存在だった。
「今日もいいお湯だったわ」
と祖母が目を細めながら言う。そんな様子を見ると、デイサービスを利用することは祖母にとっては欠かせない大切なものなのだろう。介護は専門家の手を借りなくては成り立たないものだと中学生にして知る。
祖母はデイサービスに通う日は、ぐっすりと眠ることができる。いつもは寝付くまでに時間がかかるのに、この日はすぐに眠ってしまう。そこでは、体の機能訓練になるようなレクリエーションを楽しんだり、久しぶりに同世代の友達に会ってお喋りができたりして良い気分転換になるようだ。中でも楽しみにしているのは入浴だ。家では、自分で入るのも、私たち家族が介助して入るのも安全面が心配なため専門スタッフによる入浴サービスは本当にありがたい。中学生の私と小学生の弟の二人で祖母を入浴させるのは至難の業なのだ。
夕食を食べながら、稑に祖母の介助をしてみた感想を聞いてみた。稑は意外にも「平気だった」と言う。
「姉ちゃん、母ちゃんはあんなふうだけど僕は少しでも役立ちたいと思ってるんだ」
「そうなの?稑」
「僕だって来年は六年生になるんだから、大抵のことはできるはずだよ」
「ありがとう」
私は、稑の言葉を聞いたら涙が止まらなくなった。私は、一人で頑張ってきたけれど、こんな身近に良き理解者がいるのだと初めて気付いた。これまで稑は、母の愛情を独り占めする末っ子でしかなかった。だけど、今は、介護に明け暮れる私に、協力しようとしてくれている。とても心強かった。
「私は、もう一人じゃあない。稑はもちろん、佑だって理解してくれている。そうだ、今度、眞由子にも話してみよう」
私はとても穏やかな気持ちになった。これまで心がすり減ってきたのは、私自身の闇に呑まれて、一人でがんばり過ぎていたのかもしれない。
夕食の片付けをしていると、母が帰って来た。
「うの、今日の図書館はキャンセルできたの?」
開口一番に聞いてきた。私は黙っていた。母は、私が答えないことに苛立ちを感じたのか
「ねえ!うの!聞こえてるでしょ」
と大きな声で罵ってきた。私は、大声を出す人は嫌いだった。嫌な気持ちになる。
「ねえ、お母さん。稑は一人でも大丈夫だったって言ってたよ」
「それは、うのがそう言わせたんじゃないの?まだ、小学生なんだから、介護の手伝いをさせるなんて気の毒よ。どうなの?稑」
稑は、黙ったままうつむいてしまった。こんな時、稑は言い返したりしない。母に言い返すことは、反抗しているのと同じだと見なされるから。
「お母さんは私に介護をさせるのは平気なの?中学三年生で受験生なのよ」
「だって、うのは中学生なんだから、もう介護ぐらいできるでしょ」
「お母さんは、ひどい!いつも稑ばかり子供扱いして!ダイッキライ!」
「うのちゃん・・・・・・。お母さんも大変なの!」
母親の無理解がもう我慢ならなかった。こういうのを「毒親」と言うのだろうな。さらにひどい言葉が返ってきそうだったから、すぐに自室に戻り鍵をかけた。今日も、夜の介護をするのはやめよう。母は、祖母の夜中のトイレにつきそったりできるだろうか?祖母は、万が一に備えておむつをしているが、まだおむつに排泄するのは抵抗があるらしくできるだけトイレで排泄をしたいのだ。おむつが外れてしまい排泄物が外に漏れ、処理をすることだってある。母にだってやってもらいたい。夜中に何度も起こされることがどんなに大変か、母にも知って欲しかった。
その夜、母が祖母のトイレに付き添って大きな声で怒鳴っているのが聞こえてきた。祖母も、いつになく大きな声で何か言い返している。祖母には気の毒だが、私はもうその親子げんかに加わる気はなかったし、誰もそれを止めることはできなかった。
「あんたなんか、もう老人ホームにでも入ってよ。もううんざりよ」
母がひときわ大きな声で言い放った。普段は私に任せきりにしているのに、たまに介助をすると大騒ぎをして母は周囲を嫌な気持ちにする。どこか子供っぽさが残っていた。だから、私に介護を任せておいても平気な顔をしていられるのだろう。私はベッドの上で布団にくるまりながらいつしか眠っていた。
翌朝、親友の眞由子にLINEを送った。誰かとつながりをもっていないと平静を保てない気がした。眞由子は、部活動で最後の大会を終えて引退したところだった。午後から、久しぶりにうちに遊びに来てくれることになった。中学一年生以来のような気がする。うちに来たら、私が今置かれている状況がひと目で伝わるのではないかと思う。午前中のうちに、昼御飯と、夕食の準備を済ませておくことにした。そうすれば、眞由子にゆっくりしてもらえそうだ。家事をやりくりすると余裕が生まれる。
「うの、こんにちは。お邪魔します」
眞由子がやって来た。ちょうどその時、私は祖母がトイレに移動するのを介助しているところだった。
「おばさん、こんにちは」
眞由子が言うと、祖母は昔聞いたことのある声だったからか反応して微笑んだ。眞由子は祖母のトイレが終わり、部屋まで介助をする様子を黙って見守っていた。
「ねえ、眞由子、おばさんは、ひょっとして・・・・・・」
「そう、痴呆なの。要介護1をもらっていてデイサービスを週二回、訪問介護も週三回利用してる」
「介護をしていて大変だったのね。何にも気付かなくてごめん」
「眞由子が謝ることじゃないよ。私が黙っていただけだから。心配掛けたくなかったからね」
私は、眞由子に祖母と母の関係が良くないことや、そのため孫の私が主に介護をしなくてはならないことなどを伝えた。そして、自分自身も母親とうまく接することができていないことを初めて人に伝えた。
眞由子は、私の伝えたいことを受け止めながら聞いてくれた。目にはうっすらと涙も浮かんでいた。
「うの、私の家もね、母と義理の母の関係がうまくいってなくて間に挟まれて大変なことがあるの。だから、少しうのの気持ちが理解できるような気がする。介護まで入ってくると本当に大変なことなんだろうなって」
眞由子はそう言うとしばらく黙っていた。
「何か、私にできそうなことがあればいいんだけど。ねえ、今度一緒に雑貨屋に行ってみない?気分転換にはなると思う」
私は眞由子の気持ちが嬉しかった。介護を一人で頑張ることは不可能に近い。誰かに話を聞いてもらったり、時には、一緒にどこかに出掛けたり気分転換をしないと息がつまりそうなのだ。私の心の闇に、眞由子が少し手を差しのべてくれた。私のパレットには、まだ明るい優しい色が残っていたのだ。あたたかい、まるで紅梅色のようなほんのりした桃色。
私は、もともと人に頼りたくない性格で、大変なことがあってもそれを何事もなかったかのように振る舞うことが美徳だと思っていた。だから、ましてや自分が抱えている負の部分、心の内側や闇の部分をたとえ親友だったとしても絶対に見せたくなかったのだ。でも私の闇は、一人では抱えきれないところまで達してしまいそうで、もう誰かを頼るしかなかった。それは、親友の眞由子であり、幼馴染みの佑でもあり、弟の稑でもあった。
