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【小説】「桜華―あなたの声が聴きたくて―」#7 第七話[最終話]


 街路樹の桜の花びらが一枚、風に舞って玄関前にはらりと落ちる。以前のように、桜の花が嫌いではなくなっている私がいる。病院の庭の花に水やりをしながら、玄関先を掃き掃除するのが毎朝の日課になった。

 初期研修と後期研修を終えて、今年の春、総合病院から実家に戻ってきた。
「桜華が病院を継いでくれて、父さんは本当にうれしい」
 涙ながらにそう言ってくれたとき、長年の自分の目標を達成できた喜びと、父や兄の思いに応えることができた安堵で胸がいっぱいになった。

 一度だけ、亡くなった兄から手紙が届いたことがある。

 あれは、私の二十歳の誕生日のことだった。実家に戻っていた私は、郵便物の中に懐かしい涼の字を見付け動揺した。
「涼から……?」
 私はその手紙を両手で胸に抱き、はやる気持ちを抑えながら、小走りに自分の部屋に駆け込んだ。兄が亡くなってから二年余りが過ぎているのに、どうして届いたのだろう……。
 よく見ると、封筒には「タイムカプセル郵便」という小さなラベルが貼られていた。兄は、前もって私の二十歳の誕生日に手紙が届くように投函したのだ。胸がいっぱいになる。
 机の上に手紙を置いた。椅子に深く腰掛けると、ハサミでそっと開封した。中から出てきたのは、薄紅色の便せんだった。桜の香りが漂ってきそうな花びらが描かれている。手紙を開くと、涼の声が聞こえてきそうだった。

桜華へ

二十歳のお誕生日おめでとうございます。来週から僕は、アメリカの大学に臨床実習に行きます。家を離れる前に、二十歳になる桜華になぜだか手紙を書きたくなりました。いつも身近にいる桜華に、本当の気持ちを知って欲しいからなのかもしれません。

桜華が小学生の頃に、言いかけて言えなかった言葉を、二十歳になった桜華に伝えたいと思います。一緒に歩いて帰った日、僕は、桜華に父さんと母さんの秘密を伝えようとしました。

「父さんと母さんは再婚同士で、僕たちは本当の兄妹ではない」
「だから……」と言ったところで、まだ幼かった桜華は泣き出してしまいました。

本当の兄のように慕ってくれていたからだと思います。幼い頃の出来事だから、桜華は忘れてしまったかもしれません。
あの時、言えなかった続きを伝えたいと思います。

「だから、将来、結婚することができる」

僕は桜華のことをとても大切に思っています。愛しています。

でも、年頃になった桜華に、僕よりも君のことを大切に思ってくれる人が現れたときには、不本意ながら、そいつに桜華のことを頼みたいと思います。

兄ちゃんは、いつまでも桜華のことを好きだから。君の幸せを願う。  

深見 涼 

 止めどなく溢れてくる涙が私の頬を濡らす。
「涼……、涼……、もう一度会いたい」
 私はベッドの上に泣き崩れた。涼の気持ちが嬉しいのか、哀しいのかもわからなかった。涼の文字を抱きしめた。

 ――それから、桜の花を見ると涼のことを思い出すようになった。

 涼が亡くなった春、無邪気に咲き誇る薄桃色の花が赦せなかった自分を、一年ずつそっと手放していった。兄は、いつだって私の頑なな気持ちを柔らかくしてくれる。亡くなった後でさえ――。


「深見先生、御予約でない方で、持病の薬がきれたという方から電話なのですが、お一人入れてもいいですか」
「あら、今日は診療時間後に発熱外来が入ったって言ってなかったかしら」
「今日は、発熱外来の予定はありませんが……」
「それなら、大丈夫よ」
 町医者の予約は、その日に入ってくるものも多い。

 先日は、原因不明の高熱が一週間続いている高校生が来院した。感染症の検査をしても結果は陰性だった。当院ではこれ以上検査も治療もできないため、総合病院への紹介状を出した。

 町医者の役割は、地域の人の健康を守ることと、総合病院への橋渡しでもある。

 総合病院に勤務していた頃のような複雑な判断を求められる場面は減ったものの、地域の人とのコミュニケーションの場面が増えている。
 今日の午後は、予防接種の時間枠となっている。

「深見先生、五種混合です」
「どうぞお通しください」
 できるだけ明るい声で応対をする。診察室のドアの向こうから、早くも泣き声が聞こえる。その声は、次第に大きくなっていく。

 ドアが開いて、戸惑いの表情を浮かべた親子が入って来た。
 お母さんに抱かれているのは、生後二ヶ月の赤ちゃんだ。ちょうどこのくらいになると、お母さんからもらった免疫がきれるので、五種混合の予防接種を受けることになる。

「お願いします。初めての予防接種で、この子も私も緊張しています」
 若いお母さんの表情は強ばっている。お母さんの緊張が赤ちゃんに伝わっていくので、ドアの向こうにいるときから、全力で泣いている。できるだけ優しい声で話し掛けても、赤ちゃんには聞こえない。看護師が赤ちゃんの腕を動かないように固定している隙に、注射針を刺した。

 途端に、これまで以上に大きな声で泣き始める。
「ふぎゃー」
 最初の頃は、この泣き声に慣れなかった。でも、回数を重ねていくうちに、大きな泣き声は元気な証拠なのだと実感するようになった。

 終わった後に子供たちは、安堵の表情や、やり遂げたことへの誇らしげな表情を浮かべる。その表情を見ることは、私にとってのささやかな御褒美となっている。いつか、自分の子供に出会えたらという気持ちは心の底にしまっている。

 駿が携わっている難しい脳の研究と比べたら、私がやっていることなんて小さな仕事に違いない。それでも、私はこの仕事に誇りとやりがいを感じている。

 開業医としてのやりがいと手応えを感じ始めた五月の連休中に、思い掛けないメールが届いた。

 駿からのメールだ。

 四月に帰国をしてようやく落ち着いたのだという。アメリカの大学で認知症に関する脳の研究を重ね、駿は新しい術式を身に付けた。そして十年ぶりに拠点を日本に戻すのだと記されていた。

 彼は、東京の医大に籍を置いて研究を続けながら、熱海の高齢者施設で臨床を続けるとあった。私たちが、学生の頃に実習をした場所だ。
 ――懐かしいあの頃の風景が蘇る。

 彼はアメリカにいるときも、時折、電話やメールをくれた。それでも、十年という年月の間に、駿が帰国したのは本当に数えるほどで会えないことがほとんどだった。お互いの気持ちは少しずつ離れてしまったように思っていた。

 メールには、五月末の土曜日に会おうと、具体的な日時が記されている。多忙な駿の予定に合わせた。約束をした日から、私の心は揺れ始めた。

 もう過去の人だと思っていたのに……。

 駿の中では、私とまだ恋人同士だと思っているのかもしれない――
 約束をした日から、私は仕事中にふと、駿のことを思い出すことが増えた。こんなとき駿なら、どんな言葉を患者さんに投げかけるだろう……。そう思うことは、私の職業人としての意識を初心に戻してくれる気がした。

 これまでよりも念入りに肌の手入れをするようになった私に、「変わらないね」と言って欲しい気持ちが芽生え始めていた。しばらく行っていなかった美容サロンにも足を運んだ。一体私は、何を期待しているのだろう。

 待ち合わせは、スカイツリーの見えるホテルのスカイラウンジだった。ブラウンとチャコールの配色が美しい外観のホテルは、エントランスを一歩入ると、花の香りが漂っている。
 ガラス張りのロビーは、夕日の柔らかな光を静かに取り込み、集まってくる人々を寛いだ気分にさせてくれた。大理石の床は間接照明の淡い色に染まり、一歩、進むごとに別空間へと誘っていく。 

 エレベーターの大きなガラス窓から見える東京の空は少しずつ夜の装いとなり、スカイツリーの淡いブルーの光が静かに瞬いた。階数表示が上がっていくにつれて、私の気持ちも高まっていく。
 十年ぶりに駿と会う――そう考えるだけで、平常心ではいられなかった。
 エレベーターの扉が開く――私は小さく息を吐き、胸元を整えてから、ゆっくりとラウンジの中へ足を踏み入れた。

「桜華――」
 懐かしい響き……この声だ。
 声のした方を振り向くと、そこには駿が立っていた。
「久しぶり。変わらないなあ」
 駿の声が低く響く――。

 ネイビーのジャケットに、水色のカラーシャツを着こなしている。静かな微笑みを浮かべた彼の瞳に吸い込まれそうになる。
「駿……」
 名前を呼ぶのが精一杯だった。

 ラウンジの入り口で立ち尽くす私を、駿はさり気なく手をつないでエスコートする。壁一面がブックシェルフになったラウンジには、本がアートのように並べられていた。

 窓際の席に案内された。スカイツリーの淡いブルーの光がガラス窓から注がれている。駿が青い光を纏っている。でも出会った頃のような冷たい雰囲気は感じない。心地のよい青は、私の心を静めていく。
 席に着くと、駿は飲み物と料理のリクエストを聞いて頼んでくれた。イタリアンの前菜が運ばれてきた。スパークリングワインで再会を祝う。

「熱海の高齢者施設に時々行くんだけどね……懐かしいよ」
「あの頃のことが浮かんでくるわ」
「そうなんだ。色々な場所で君のことを思い出す……」
 私の頬が朱色に染まる。

「桜華、これから僕は、日本で過ごすから」
 和らいだ駿の瞳がまっすぐに私を捉えた。体の奥がじんとする。

「また、二人で会えないかな」
 駿の気持ちが研究から私に戻ってきたようで、うれしさをそっと味わう。

 「また会えないかな」の「また」が数ヶ月先になったとしても、会いたいと思ってしまうのは、駿との思い出が医師としての私も、女性としての私も支えているからなのかもしれない……。

 私はゆっくりと頷いた。

 運ばれてきた料理を食べながら、駿はアメリカでの暮らしを話してくれた。私は、開業医としての一歩を踏み出したことを伝えた。そして最後に深い琥珀色の珈琲が運ばれてきた頃には、黙ってお互いの瞳を見つめ合っていた。  
 その後、駿は私の腰に手を回し、宿泊するホテルの一室に案内してくれた。もしかしたら、私は再びこうして駿と出会うことを心のどこかで待っていたのかもしれない。

 部屋に入った途端、駿は私の背中に手を回し、ゆっくりとファスナーを下ろしていく。私は駿の腕の中で、ファスナーの音を聞きながら体中に熱を帯びていく。駿も朱色の熱を帯びていた。

「きれいだよ」

 駿が耳元で囁いた。駿の視線を全身に感じて、もう立っていられなくなった私は駿に体を預けた。駿は優しく私をベッドの上に寝かせ、ひんやりした舌と、長い指でゆっくりと全てを確かめていく。
 私はまるで、少女のような羞恥心を纏い、少しずつ彼に応じていった。
 駿の舌は、冷たくて、優しくて、意地悪だった。懐かしい駿の匂いを嗅ぐと、あの頃の自分に戻っていく――激しく彼を求めていた。

 翌朝、二人で朝食を食べると、駿は仕事があるからと再び日常の中へ戻っていった。

 次の約束はしていなかった。でも、それから駿は、時間ができると電話をかけてきたり、メールを送ってきたり、アメリカにいるときよりも頻繁に連絡が届くようになった。

 数ヶ月に一度出会うと、刹那の感情を交換してそれぞれの場所へ戻っていく。どんなに求め合っても、二人とも「結婚」という言葉は口にしなかった。

 それぞれに大切にしなくてはならない医療現場があるからだ。出会った時からわかっていた。恋の始めから、終わりが見えていた。
 でもそれは、思っていたよりも長く続き、終わりがどこにあるのか見えなくなってしまった。

 駿が日本に戻ってから、二年余りが経とうとしていた。医療系の雑誌や、新聞などで駿のインタビュー記事を見掛けるようになった。脳に埋めるICチップ「コネクタス」の臨床試験について述べていた。彼の人を寄せ付けないような語り口は健在だった。


 一方で、この頃から自分にある変化が起きていると思う瞬間があった。


 駿に会うために東京へ行くと、思うように目的地に到着しない。電話をして駿に迎えに来てもらうことが増えた。そして、もっと気が掛かりなことに、仕事でのミスが連続するようになっていた。

 この日、駿はベッドの上で静かに言葉を選んで話し始めた。
「桜華の最近の様子を見ていると、疲れだけじゃないって心配になることが増えてきた。一度、僕の病院で検査を受けてみないか。もしも、万が一のときには、全力で君を助けるから」

 心なしか、駿の目頭はうっすらと濡れていて、自分が深刻な状況にあることを知る。
「私からだとうまく説明できないから、そのことを駿から父に話してもらってもいいかしら」

 駿は、私の顔をじっと見つめている。不安がよぎる……。
「それなら僕は、桜華と付き合っていることを君の父さんに伝えさせて欲しい。結婚はまだ約束できないけど、君のことを誰よりも考えている」

 呼吸は浅くなり、鼓動が速くなっていく……。

 突然のことに、うれしいのか、哀しいのかわからなくなる。これまで男性を紹介したことがなかった私が、父に駿を紹介する――
 うれしいはずなのに……私の身に起きつつある変化、恐らくは、認知機能に問題があることも伝えなくてはならない。父にとっては、どちらも辛い話なのかもしれない。

「ひとつだけでも父は驚くと思うけど、一度に二つも伝えたら混乱しないかしら」
「大丈夫。君は僕にとって自分より大切な人なんだ……全力で支える覚悟を伝えないと、僕の医療を受けてもらうことに納得できないだろうから」
 私への真剣な気持ちがまっすぐに伝わってくる。臨床をしている高齢者施設に特別室を用意するつもりだというのだ。

 かつて学生だった私たちが実習をした場所……
 駿が臨床を続けている場所……
 自分が患者になる――
 不安な気持ちが揺れる。
 指先の力まで抜けていく……



「先天性心疾患だった僕も、医療に救ってもらったんだ」


 その言葉は胸の奥にゆっくり沈んでいく。  
 彼が生きてきた軌跡が浮かぶ。


 ――私の気持ちは決まった。
 駿に運命を預けてみようと思う。
「必ず、直してみせるから心配しないで……」
 青白い希望が駿の目に灯る。

「僕は、人一倍、生きることにこだわるんだ」
 彼の生き方が……私を照らそうとしている。





 駿の腕の中で、私は涙が止まらなかった――。







🌸𓂃◌𓈒𓐍🍃𓂃◌𓈒𓐍🌸𓂃◌𓈒𓐍🍃𓂃◌𓈒𓐍🌸
最終話まで、桜華と駿におつきあいくださってありがとうございます
💐✨
感想を頂けますとたいへん励みになります。
どうぞエピローグまでおつきあいいただけますよう……
尚、プロローグに全話リンクしています。


音楽
南かのんさん
【癒しピアノ】雨の日のお茶会より
In Place of Words ( 言葉の代わりに)
持ち込みの画像で2曲使わせていただきました。ありがとうございます💐