【小説】「桜華―あなたの声が聴きたくて―」#5 第五話
翌朝は、実習のガイダンスから始まった。
「桜華、こっちこっち」
自由席だったから、少し早めに来たのだけれど……。駿が隣の席を取ってくれていた。
「私の分まで……ありがとう」
椅子に手を掛けたとき、一瞬、指が触れた。
「大切にするから」とつぶやいたときの駿を思い出す。唇がふれ合ったときの感触も……。でも駿の表情はいつもと変わらなかった。だから私は、注意深く感情をしまった。
研修生は様々な大学から集まった十名だった。「プロフェッショナルカリキュラム」は、二年次を目前としたこの時期に高齢者施設で実施される研修で、専門課程への入り口となっている。
実際にお年寄りと関わりながら、「老い」を「医療」でどう支えていくのか、それぞれの考えをもつことが求められている。それが、将来医師を目指す者に必要な、生きた医療倫理を育むことになる。
施設の所長さんは、「自分から関わりをもつこと。医師の立場から考えるのではなく、入所者の立場で考えること」と念を押した。
気付いたときには、駿は、もう質問をしていた。
「自分から関わりをもつとのことですが、僕たちが関わることで、入所者の方に影響を与えてもいいと解釈して宜しいですか」
所長さんは笑顔を浮かべ、「もちろんです」と答えた。
青を纏っていた駿の表情は、少し緩んだ。
二人一組でチームとなり、二、三人の高齢者を担当する。指導教官のように、それぞれのチームにベテラン看護師が指南役としてついている。学籍番号が前後する私と駿は同じチームで、駿は、八十歳の高齢男性、松本功一さん、私は、八十四歳の高齢女性、宮本和江さんを担当することになった。
まず最初に、見当識検査をして、相手の状況を理解するようにと説明されていた。駿は担当看護師の細田さんに何かを借りるお願いをしている様子だった。
最初は、八十歳の男性からだ。駿はゆっくり歩きながら、リハビリルームまで付き添っていく。テーブルの前に腰を下ろしたところで、担当の看護師も同席した。駿は穏やかな声で検査を始める。
「はじめまして、研修医の三浦駿です。松本さんに、今からいくつか質問をするので答えてくださいね」
「あいよ、どうぞ」
「生年月日、何年のいつ生まれたのか教えてください」
「わしゃあ、昭和二十一年の八月五日じゃ」
「真夏に生まれたんですね」
「夏の男って言われたもんじゃよ」
駿は口元を緩めた。松本さんも笑顔を浮かべている。
「今日は、何年の何月何日でしょう」
「難しい質問じゃな。確か、今は平成……いや令和八年の……忘れたのう」
「一瞬、平成に戻られたみたいですが、おっしゃる通り令和八年で、三月です」
松本さんは、照れ臭そうに頭を掻いていた。
「こちらのお写真のことを教えてもらってもいいですか。このお写真はいつ頃、撮影されたのでしょう」
「懐かしいなあ、これは息子も一緒に旅行をしたときじゃから、昭和じゃったかのう」
この写真を、駿は細田看護師に頼んで借りていたのだ。しかも宮本さんの分まで頼んでくれていた。
「この場所は、どちらです?」
「これはなあ、確か、京都じゃったかな」
「もう少し、詳しい場所を教えてもらってもいいですか」
「うーん、そりゃあちょっと難しいわ」
「広いですからね、京都は……。このくらいにしましょうか」
「先生、楽しい人じゃわ。ありがとうよ」
病室へ戻る間も、駿は若い頃の話を聞いていた。松本さんの声は、さっきより弾んでいる。
「あれだな……。バイクに乗って東京まで行ったことじゃな。あれは楽しかったっちゅうか、危なかったっちゅうか、なんとも言えんなあ」
「東京までバイクで行くなんて、かなり冒険ですね」
私は、松本さんと駿の後ろを歩きながら、在りし日のバイク旅を想像していた。
次は、宮本和江さんの見当識検査をするのだが、宮本さんは歩くのが嫌だと訴えたため、ベッドサイドで行うことにした。
「宮本さん、はじめまして。研修医の深見桜華です」
「えっ、なんじゃって?」
「ふ、か、み、です」
「ふ、か、み、さんじゃね」
「質問をさせてくださいね」
宮本さんは、きょとんとした表情をしていた。
「お誕生日を教えてくれますか」
「誕生日はなあ、今日じゃ」
「そうなんですね。おめでとうございます」
ベッドのネームプレートには、八月四日生まれと記されていた。
「今日は何年の何月何日でしょう」
「ええっと、今日は、暑いかいから七月じゃろう」
「今日は三月だけど、暖かいですよね」
「この写真を御覧ください。この写真はいつ頃のものでしょう」
「これは、えっと、えっと……」
そのまま考え込んで、喋らなくなった。質問の不適切さを思い知る。
「では、どこへ行ったときの写真かわかりますか」
「それは、浅草じゃよ」
「お写真の宮本さん、うれしそうですね」
「そうじゃ、たしかこん時は、おみくじで一人だけ大吉が出たもんじゃから、うれしかったわあ」
「一人だけ大吉だったんですね。うれしいですよねえ」
私まで思わず笑顔になった。
「宮本さん、ありがとうございます」
挨拶をして退室した。ナースステーションに戻った途端、宮本さんからナースコールがあった。
慌てて、病室に戻ると、宮本さんは泣いていた。
「今日、わし誕生日じゃ……誰も見舞いにこん……」
子どものように声を上げて泣いている。会いたい気持ちを想像すると、胸がきゅっと痛んだ。
「宮本さん、きっと今日は忙しくて来れないのかもしれませんが、明日は来れるかもしれないですから」
私は、差し障りのない慰めの言葉を差し出した。駿は渋い顔をしたまま、見つめていた。
「大丈夫ですよ、宮本さん」
そう言うと、宮本さんの背中をさすった。次第に、宮本さんの表情が明るくなっていく。私は、宮本さんの様子に安堵した。
「場所を変えて、今日の振り返りをしておきましょう」
担当看護師の細田さんが声を掛けてくれた。ベテランらしい毅然とした雰囲気の中に、ふとした笑顔から安心を感じさせてくれる人だ。三人で談話室へ向かう。談話室は、会議用のテーブルがひとつ収まっているだけの小さな部屋だった。
奥の席には細田看護師が、手前には駿と私が座る。
「お二人とも、見当識検査は経験あったんですか? お上手でしたよ」
「僕は、初めてです」
「私も初めてです」
二人がおずおずと答えると、細田看護師がどこが良かったかを教えてくれた。
「三浦さんは、松本さんの言葉に、ユーモアをもって返していましたよね。大勢の患者の一人ではなく、松本功一さんに寄り添っているのが伝わってきました」
駿の頬が少し上気した。「人一倍、生きることにこだわる」ことは、他の人の人生も大切にすることなんだ……また「彼らしさ」がつながった。
「病室まで送っていくときにも、若い頃に楽しかったことを聞かれていたじゃないですか。ああいうの、とても素晴らしいです」
確かに、バイク旅について答える松本さんの表情は生き生きとしていた。
「深見さんは、見当識検査の際に、『うれしそうですねえ』『うれしいですねえ』と共感しながら聞いていたところがとてもいいです」
恥ずかしさを紛らすために視線を動かすと、微笑みを送ってきた駿と目が一瞬、合った。
「それから、宮本さんが『誕生日は今日じゃ』と伝えたときの、対応も素晴らしかったです。相手が言っていることを否定はしないけれど、話を進めていくところ、慣れているのかと思いました」
細田看護師が、私に微笑んだ。
「実は、宮本さんは誕生日を聞く度に『今日じゃ』って答えてしまうんですよ。『今日じゃ』ってことにしておけば、聞いた人はたいていおめでとうって祝福してくれるじゃないですか。その言葉が欲しいがために、『今日じゃ』って答えてしまう……。いわゆる誤学習の類いです。でも本人にとっては心地の良いことで、プラスになっているから、一概に誤学習が間違っているとも言えないのです」
『今日じゃ』って言った方が得すると捉えているなら、認知力はしっかりしているのかもしれない。
「あの、細田さん、松本さんは普段の生活はどうなんですか」
私が質問すると、細田看護師は、カルテに目を通して「やっぱり、そうよね」とつぶやいた。
「松本さんは、排泄がうまくいかなくてオムツを履いているんですけれど、それが窮屈なのか、すぐに自分でオムツを剥がしてしまうんですよね」
「そうなんですね」
頷いた私に、さらに詳しく話をしてくれた。
「オムツのトラブルは、介護や看護をする者にとって大変な労力です」
「掃除をするのに、人手も時間も費やされますよね」
駿が言葉を挟んだ。
「その通りなのよ」
頷いた細田看護師の言葉には、実感が込められていた。
駿は一瞬、考え込むように黙った。そしておもむろに口を開いた。
「そういう認知の課題ですが、手術で改善するようにならないでしょうか」
細田看護師の視線は、一瞬、どこか遠くを漂った。
「今の医療では難しいです。でも、あなた達が三十代、四十代になる頃にはひょっとしたら手術できるようになっているかもしれないですよね。新しい術式を編み出してくれる人がいたら」
「新しい術式を編み出す……」
駿は、細田看護師の言葉を繰り返した。
「もしもメスを入れるなら『海馬』だろうな……」
駿の目に、青白い熱が灯ったような気がした。その目は、未来を見つめているのかもしれなかった。いつか手術できる日がきたらと願っている自分に気付いた。青白い熱は周囲に伝搬するのかもしれない……。
翌日は、施設の春祭りだった。入所者の皆さんが楽しみにしている会だと聞いた。様々な室内ゲームを楽しんだり、カラオケを熱唱したり、地域のバンド演奏を聴いたりして、たいていの入所者は楽しんでいた。
なかには、混雑や大きな音が苦手な入所者もいて、隅の方で小さくなっていた。全ての人が楽しめるものは、なかなか少ないのだと気付かされる。
駿は、トランプでも、輪投げでも、誤魔化して勝ちたい入所者が気になる様子で、目で追っていた。
「どうして誤魔化した方が得だと思うのだろう」
厳しい目をして、つぶやいている。
そういうときの駿は、他の人を寄せ付けない何かを持っていた。私でさえも、話し掛けることはできない……。
実習をする日々は、瞬く間に過ぎていった。最終日の午後は、それまでの実習から「老い」を「医療」でどう支えていくのか、各自でまとめ発表することになっていた。
それぞれの個室にこもり、成果を盛り込みながら考えを組み立てていく。
誕生日がいつか聞かれる度に「今日じゃ」と答えている宮本さん、その結果、誕生日ではないので家族が来ないと嘆くことになる――宮本さんはどんな気持ちでいるのだろう。
その様子について考察をまとめた。単に注目を集めたいのかもしれないけど、本当は毎日、家族と会いたい気持ちから表出している言葉なのかもしれない。どんな言葉を掛けたらいいのか……難しい。
私は、今回の実習で、宮本さんに掛けるべきベストな言葉を見付けることは出来なかった。正直な気持ちをレポートに綴り、できあがったものを実習施設と大学の両方にデータで送信した。
ベッドサイドで充電をしていた携帯電話のバイブが鳴る。駿の名前が表示されている。私は、どきどきする鼓動をごまかすために、大きく息を吸って電話に出た。
「もしもし、僕だけど……一緒にプレゼンしない」
「リハーサル的なものね。どこに行けばいい?」
PCを持参して駿と談話室で待ち合わせをした。
駿が先に、プレゼンを披露してくれた。いつの間に考えていたのだろうと思うほど緻密な理論と、裏付けの資料がわかりやすくまとめられていた。
「認知症の根本的な治療を目指して、僕は将来、海外に研究留学をしたい」
駿は力強く目標を語った。きっと実現させるに違いない。拍手を送りたい。でも……その気持ちとは裏腹に「予期していた未来」が思っていたよりも早く輪郭を持ち始めて、胸の奥に小さな痛みが広がっていく。
それは喪失感の匂いがした。
私はというと、町医者として地域の高齢者の話に耳を傾けて、何かあったときに力になれる医療者として関わっていきたいと結んだ。
私の心の中にあったもやもやの正体がくっきりと浮かび上がった。MOA美術館で唇を重ねた後、無意識にこぼれたあの涙の理由――。
駿は、気付いただろうか……。今の駿は、青色を纏っている。そんなときに、私の心の内を伝えても、伝わらない気がした。
下を向いたまま、顔を上げられなくなった。私の瞼の縁に無意識に現れた雫が、また勝手に落ちてしまわないように……。
「ねえ、桜華さん。顔色が悪いよ。寝不足してる?」
駿が、不意に声を掛けてくれた。本当の気持ちを話すべきかどうか……
――私は迷っていた。
音楽
南かのんさん
【癒しピアノ】雨の日のお茶会より
Across the Distance ,To You (距離を超えて、あなたへ)
その中の二曲を持ち込みの画像で使わせていただきました。
ありがとうございます💐
