小説「ヤングケアラーな私の闇は深くて愛しい」第2話[幼馴染みの背中は広くて]
第2話
夏休みになったら、私の心模様はだいぶ晴れてきた。祖母にも優しい言葉で応対できる余裕が生まれた。学校に通っている時と、休みの時では気持ちの面で随分と差があることが分かった。
だが、中学生の本分は介護ではなく学業だ。だから、「学校が休みになって介護の質が上がる」ことは良いことなのだろうけれども、私の心の闇の解決にはならない。学業が生活の中心となるような元通りの生活に戻りたいのだから。たとえそうであったとしても、心の平安が一時的にも訪れたことはとても喜ばしいことだった。
「おばあちゃん、ホットケーキ食べる?」
ベッドで横になっている祖母の顔を覗き込んで聞いた。
「うのちゃんは、ホットケーキ好きだね」
「おばあちゃんが昔、よく作ってくれたね」
「ホットケーキならおばあちゃんが作ってあげる。そうだ、うのちゃん。今日のおにごっこはどうだった?」
祖母との会話は、たいていタイムスリップする。記憶が昔に戻ってしまっているのだろう。私のことを、まだ小学生だと思っている。
「今日は、おにごっこやらなかったよ」
話を合わせ答えた。
「稑は、ランドセルの色何色にするんだろうね?」
稑のことは、今度小学生に上がる幼稚園児だと思っているようだ。
祖母は、自分のベッドからゆっくりと起き上がり、手すりをつたいながら少しずつ歩いてこちらへ向かっている。私は、祖母が歩行する時にはできるだけそばで転倒しないようにサポートをしている。狭い家の中なので、全ての場所に手すりを付けるわけにいかなかったのだ。
「ねえ、稑も一緒にホットケーキ作ろう」
隣の部屋にいる稑に大きな声で呼び掛けた。
「はーい。姉ちゃん」
返事があった。稑は、ホットケーキくらいなら自分で作ることができる。夏休みなのだから手伝ってもらおうと思っている。休みの朝は、少しゆっくり起きて、朝食と昼食を兼ねて取ることにしている。そうすると、家事の負担が一食分減り、睡眠時間を確保できて夜の介護にも余裕が生まれる。
稑は小学五年生男子にしては、手際良くホットケーキを焼いた。
「ばあばの分は、小さくカットしてね」
「うん、このくらいでいい?」
祖母はまだ固形物を食べることができる。ミキサーを使ったり、別のものを調理したりする手間がない分だけまだ軽い方なのかもしれない。でも、自力では上手に食べることができないため食事の介助が必要となる。
「稑も、食事の介助をしてみたら?」
私は夏休み中に、稑にも介助をすることに慣れてもらおうと思っている。私一人でやるよりも二人でやった方がうまくいくだろうし、子供だから何もできないのではなく、稑にも家族の役に立って欲しかった。
「稑、なかなか上手に食べさせてる」
祖母は、稑に食べさせてもらうのがよほど嬉しいようで満面の笑みを浮かべている。
「姉ちゃん。僕ってなかなか見込みあるかな?」
「あるよ!ある。稑って意外な才能あるよ」
「意外って何だよ。一言余分なんだから、姉ちゃんは」
稑は母に子供扱いされているだけで、こうして直接頼めば、案外動いてくれる人なのかもしれないと思った。勿論、時にはけんかもするけれど、一緒に介助に加わってもらった方がいいに決まってる。
話をしながら食べていると、悪臭が漂ってきた。祖母がおむつに便を排泄したのだ。赤ちゃんの排泄は臭わないらしいが、大人の排泄はすぐに分かる臭いなのだ。だからといって、今すぐおむつ交換する必要はないから、何事もなかったように食べればいいのだけれど・・・・・・。祖母は今のところ、補助をすれば、どうにか自分でおむつの交換ができている。
食事の後で、祖母の部屋までサポートしながらゆっくり歩き、実際に祖母が自力でおむつ交換するのを補助しながら、介助のコツを稑に説明した。祖母の後ろ側から補助する方が羞恥心を刺激せず、相手を尊重することにつながるのだと思う。万が一おむつが外れて排泄物が漏れてしまった場合の処理が大変なことと、その対応方法も念のため伝えておいた。
食事の後、祖母は長時間、ベッドで眠ることが多い。今日もすぐに眠ってしまった。年を重ねるとだんだんと赤ちゃんに戻って行くのかもしれない。
私と弟は、祖母が寝ている間に、それぞれの部屋で夏休みの課題を進めることにした。勉強机の上にたくさんの課題を並べてみた。五教科分の問題集、読書感想文、人権作文、理科の自由研究、社会科の自由研究、技術の製作課題等様々だ。こんなにたくさんの課題を全部やりきることができるか不安になった。まず今週は、問題集を片付けることにした。
一学期に授業に集中できていなかったから、数学の問題のあちらこちらがよく分からなかった。教科書や参考書を見ながら懸命に解いてみる。
「うーんっ。これは佑君に後でLINEして聞いてみよう」
佑の教え方は上手だ。彼には才能がある。人から好かれる才能もあり、勉強が得意な賢さもある。最近は年齢よりもおじさん?なのかと思うくらいに成熟していて、私よりも年上なのではと思う。
小学生の頃は、頼りなくて、私が佑に頼りにされていた。小学三年生の頃だったと思う。一緒に下校していて迷子の大型犬が付いて来た時には、一人でびくびくして、私の陰に隠れたりしてかわいかったなぁ。その時、初めて佑と手を繋いだ。だって、あんまりにも恐がっていたから。
「ねぇ、佑君。手を繋いで帰ろっか?」
「うん」
佑は涙がこぼれないように我慢しているように見えた。小さい頃に、自分の背丈の倍以上ある犬に追いかけられたことがトラウマで、リードに繋がれていない大きめな犬を極端に恐がるのらしい。繋いだ手をギュッと握ってくる佑から、大型犬を恐れていることが伝わってきた。「大丈夫だよ」という気持ちを込めて、私もそっと握り返した。
あんなにかわいかった佑は、今では頼りがいある中学三年に成長している。私よりもずっと伸びた身長、たくましい肩、優しい笑顔、低い声。話し方も少し大人びている。佑の好きなところはいっぱいあるけど、一番好きな所は「私を甘やかしてくれるところ」かな。家では長女だからという理由で、甘えた記憶がない。だから、私のことを甘やかしてくれる人は貴重なのだ。私はLINEで佑に、数学の質問を送った。その後は、読書感想文用の本を読んだり、家事を済ませたりした。
夕食も、稑に祖母の食事の介助を頼んだ。稑は意外なことに快くやってくれていた。今日の夕食はそうめんと天ぷらとジャガイモサラダ。天ぷらは祖母は食べない方がいいようだ。そうめんは、食事用のはさみで短く切りそろえてから口に運ぶ。
食事をしている途中に携帯の通知が届いた。佑からLINEの返信だ。
「その数学の質問、LINEだと説明しづらいから明日、会って教えてあげるよ。図書館でどう?」
「え?図書館で明日、佑に会えるの?」
私は思わず口に出してしまったが、稑は祖母に話し掛けている最中で、聞かれていない。鼓動が高鳴るとはこんな時に使うんだな。でも、祖母はどうしよう。私は一瞬にして様々に思い巡らせた。その結果、思い切って稑にデイサービスに行く時の祖母の介助をお願いすることにした。勿論、稑には佑に会うことは告げずに、休んでいた時の勉強を教えてもらうために図書館へ行くことだけを伝えた。
「明日が楽しみになるなんていつ以来だろう?」私は、突然にやって来たわくわくする気持ちが久しぶりすぎて一人でに、笑顔になってしまう。明日は何を着て行こう?佑に会ったら、最初に何を話そう?やっぱり、お礼の気持ちを表すのが大切だな。私のわくわくは止まる気配がなかった。稑は、私に起きた小さな歓びに気付いただろうか?
夕食後、稑にはデイサービスへの持ち物や、行く前に祖母に排泄を促すことなどを具体的に伝えた。稑は、不安げながらも説明をよく聞いていた。
いつもなら、退屈になるくらい一日が長いのに、繰り返し同じ話をする祖母の相手をするのもうんざりするのに、この日は瞬く間に過ぎて行った。夜になって、母が帰って来た。
「今日は、そうめんと天ぷらを作ってくれたのね。ありがとう」
母は、私がやったことに対して、表面上はお礼を言うことが多い。だからといって、私を心配して早く仕事を終えて帰って来ようとか、食事を作り置きしておこうといったことは一切考えていない。何よりも、自分の母親の世話を子供に全面的に任せて平気でいるのだから、無責任に違いない。
「母ちゃん、明日は僕がばあちゃんをデイサービスの人に引き渡すのをやるよ。ねえちゃんは、図書館で勉強教えてもらうんだって」
「あら稑、一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。もう五年生なんだから。たまには、姉ちゃんだって息抜きが必要だよ。」
稑はたまにはいいこと言うな。
「でもね、稑はまだ小学生だから、うの、その図書館の用事、キャンセルできないの?」
私は、耳を疑った。毎日、毎日、繰り返される介護の日々を中学生である私に背負わせて、この母親は何とも思っていないんだな。しかも、受験生なのに・・・・・・。私は、母に失望して、落胆し、怒りが込み上げてきた。
「母さんは、いつも稑のことばかり心配してひどい!たまには、私の身にもなってよ。母さんなんて、ダイッキライ!」
私は、そう言い放つと、自分の部屋に鍵をかけてこもった。もう祖母がトイレに行く時だって、排泄処理がうまくいかなくたって起きないから。
ドアの向こう側から母が呼ぶ声がしたが、私は反応しなかった。ノックをする音も聞こえないふりをした。ベッドに横になり布団を頭まで被った。後から後から、涙が出てきて止まらなかった。「そうか。私ってこんなに哀しかったんだ」と気付く。何が哀しいのか考えてみたけれど、色々なことが複雑に絡み合ってほどけなかった。「そうだ。全部哀しいんだ」とつぶやいた。母が弟のことばかりに気を遣うことも、長女としていつも家族を支えなくてはならないことも、祖母の介護をすることも、介護をしているせいで中学生らしい生活ができていないことも、明日、図書館に行くなと言われたことも、全部、全部哀しい。
これ以上、私のパレットを哀しい色でいっぱいにしたくない。大切な大好きな色をパレットに残したいのだ。私は、いつしか深い眠りに落ちていた。
翌朝起きると、母は「出張だから早めに出勤します」とだけ書き置きがあり、既に家を出た後だった。昨日の出来事に一言も触れていないのも母らしい。なかったことにでもしたいのだろう。そして、私が図書館に行くことをあきらめる良い子であることを望んでいる。
稑と朝食を食べながら話をした。祖母をデイケアスタッフに引き渡す手順や持ち物のことなど分かったから、稑は一人で大丈夫だと言ってくれた。私は弟に感謝した。母よりも弟の方が大人なのかもしれない。
佑との待ち合わせは、図書館近くの公園だった。少し早めに着いてしまったが、佑は先に来ていた。
「佑君、おはよう。待った?」
「いや、さっきまでブランコに乗ってたから」
「ブランコ?懐かしいね」
「乗ってみる?意外とスリルあるよ。漕いでる方が成長してるからさ」
「うん。乗ってみたい」
ブランコに乗る想定はしていなかったけど、丈の長めのスカートを履いてきて正解だった。図書館はまだ開館前だ。私と佑は小学生の頃よりも振り幅の大きい弧を描いてぶらんこを漕いだ。ムキになって漕いでいるうちに、私の右足の靴が突然脱げて、もっとずっと大きい弧を描いて遠くに飛んで行ってしまった。
「うの、何してんの?靴飛ばし?」
佑は笑いながら、漕いでいるブランコからジャンプして降りると私のブランコの揺れを止めた。今度は正面から両手でブランコのチェーンを持ったから佑の顔が近づいてきた。
「ほら、乗れよ」
佑は向きを変えると、背中に乗るよう促してきた。私は自分の顔が熱くなるのを感じた。戸惑いながらも、私はブランコの台座に両足で立って佑の背中に手を掛けて体を預けしがみ付いた。佑の背中に私の体が密着してドキドキが止まらない。気付かれたくなくて息を止めたら余計に鼓動が速くなる。私の柔らかな胸に、佑の背中のぬくもりが伝わってくる。優しい温かさだ。私を負ぶって、右足の靴の所まで歩いてくれた。
「はい、着いた」
「うん」
飛んで行った右足の靴の前で背中から降ろしてくれた。左足だけで立つ私に、右足に靴を履かせてくれた。私は、佑の優しさが嬉しいのと、恥ずかしいのとで素直になれず、素っ気ない態度を取ってしまった。
そこからお互いに少し気まずく無言になりながら、図書館へ向かった。図書館の自習室エリアの一番奥の長机を使うことにした。
「さあ、それでどこが分からないんだって?」
佑は気まずい空気を払拭するかのように明るく言った。私は鞄の中から宿題の数学の問題集を出して見せた。たくさんの付箋に佑は驚いていた。佑は、順序立てて、分野ごとに一問ずつ丁寧に説明をしてくれた。そして説明の後には、必ず練習問題を出題して私が本当に理解できているのかを確認してた。「まるで先生みだいだな」と思いくすっと笑った。佑は、私が笑ったのを見て、微笑み返してくれた。
「うのさん、分かりましたか?」
「ねえ、佑って先生みたい」
私が笑うと、今度は咳払いまでして小学校の時の先生のまねをした。
「あ、それ分かった。今の小六の時の担任の大村先生でしょ?」
「当たり!大当たり!ピンポン!」
佑は嬉しそうにはしゃいで言った。
「佑、ここ図書館よ。しーっ」
私は人差し指を顔の前に持って行き、佑の瞳を見つめた。佑の顔が私の人差し指に近づいてきて、唇が触れた。佑の唇の体温が人差し指に伝わって、私は胸の辺りが苦しくなった。ドキドキが止まらない。
「うのちゃん、数学分かった?」
佑はいたずらっぽく笑った。
「はい!佑先生、ばっちりです」
鼓動で破裂しそうな心臓をなだめながら、指でOKサインを出して無理やり微笑み返した。
昼食は、近くのお店でホットドッグを買って、朝寄った公園で食べることにした。まるで貸し切りの公園のあずま屋で、テーブルに買ってきたホットドッグと持参した飲み物と私がこっそり作ってきたカップケーキを並べた。
「えっ?うのちゃん、カップケーキ作ってきてくれたの?嬉しいよ」
「勉強を教えてくれたお礼なの。ありがとう、佑」
佑は、ホットドッグよりも先にカップケーキを頬張った。口にカップケーキが入ったまま
「おいしいね!これ」
と嬉しそうだった。私も佑の喜ぶ顔を見て一人でに笑顔になってしまう。
ホットドックも佑は、あっという間に食べてしまった。佑がおいしそうに食べている姿を見るのが好きだなと思う。おいしくて、幸せな気持ちが伝わってくるのだ。
「そうだ。うのちゃん、最近、学校休みがちだったけど、どうかした?」
佑が突然、聞いてきた。
「おばあちゃんが骨折で入院してるうちにね、痴呆が始まってしまって」
「あんなに元気だったのにね、おばあちゃん」
「二ヶ月入院しているうちに、どんどん変わっていってしまって」
「今は、どんな具合?家で誰かが看てくれてるの?」
佑が心配して聞いてくれたので、昼間は訪問介護の人が生活援助をしてくれたり、デイサービスに通ったりしながら過ごしていることと、それ以外は母ではなく、自分が介護に携わっていることを話した。
「そういうのって、ヤングケアラーって言うんじゃない?この前、報道番組で特集してたよ」
「そういう言葉があるんだ」
初めて聞く言葉に「それって私のことかもしれない」と関心をもった。
「ヤングケアラーっていうのはね、大人がやるようなケアを引き受けて家族の世話をしている十八歳未満の人を言うらしいんだ」
「それって、私のことだ」
自分と同じような人が他にも居て、呼び名が付いていることを初めて知った。安心するような、困惑するような微妙な気持ちだ。私以外にも、介護を任されている子供がたくさんいるという社会の仕組みに落胆した。
「ねえ、うのちゃん。どんなことで困ってるの?」
「学校に行く前に、おばあちゃんに朝食を食べさせてあげるのも大変なんだけど、苦労して食べさせてあげた後に、痴呆ですぐ忘れちゃうから『まだ、朝御飯くれないの?』って言われて口喧嘩みたいになるのが嫌だな」
「朝から、たいへんだ!」
「ほんとに朝から大仕事してるよね?私」
自分の苦労話を初めて人に話して、共感してもらえたことが嬉しかった。「今まで、うのちゃんからその話聞いたことなかったな。誰かに相談したことある?」
「ない。今日が初めて」
「これからはさ、あったことを僕に話してよ。ちょっとはスッキリすると思うよ」
「うん。ありがとう」
「じゃ、また!」
佑はその日、午後部活に行くという。見送っていると遠去かって行く佑が
「夏休み中、一緒にどっか行こう」
手を振りながら元気な声で言ってきた。
「分かったぁ」
大きく、大きく両手を振り返しながら
「そうだな。そんな自由な日が一日くらいあったらいいな」
私は小さくつぶやいた。
