【小説】「桜華―あなたの声が聴きたくて―」#4 第四話
ぎこちない重い空気が流れていた。その沈黙に耐えられなかった。
「三浦さん、どうしてここにいるんですか」
「僕はね、実は小学生の頃にここに通っていたんだよ」
私もさやかも、思わず声を上げた。
「どういう意味?」
二人の声が、重なった。
「先天性心疾患でさ、心臓の壁に穴があってね。ほら、心房中隔欠損症ってやつ」
三浦駿の意外な一面を知る。
「子供の頃はちょっと走っただけで息が上がっちゃうし、運動制限もあってね、みんなと同じようには遊べなかったし、常に死がちらついて、元気なヤツが羨ましかった」
どんな言葉を返したらいいのだろう……。
「だからさ、人一倍、生きることにこだわるんだ」
それであのとき……。
三浦駿のことを嫌いになった日のことを思い出していた。
「医療倫理学の最初の頃に、僕は君に何か失礼なことを言ってしまったのかもしれないってずっと考えていたんだ。でも、わからなくてさ」
私はずっと覚えている。「個人的には、この話の長女のように何が何でも延命を希望するのは、まずいと思っている。傲慢だよ」と言われた日のことを……。
でもそれは、彼が治療を受ける側だった人だからなのだ。
――今、ようやく納得できた。「八十歳の進行癌のAさんに対して長女が、何が何でも延命を希望すること」を傲慢だと捉えながら、「高校生の治療を本人が辛くても止めない判断」を支持することは矛盾していない――
医師としては、保護者の考えも、本人の考えも尊重したいけど、それが高校生ならば、責任を負う保護者の意見を優先する。彼は、実際に保護者の判断によって辛い治療を受け入れながら、命を繋いできた人だったのだ――
――「だからさ、人一倍、生きることにこだわるんだ」彼の言葉が胸に重く何度も響く。
年齢も、病状も、背負うものも違う。だから彼は、その都度、苦しみながら考えているのかもしれない。ふと彼の瞳を見ると、その瞳の深さに吸い込まれそうになる。
三浦駿の言葉に重みがあり、説得力ある理由がわかった。彼はきれいごとを並べているのではなかった。体験から滲み出た言葉や、そこから生まれた価値観で勝負をしている。とても深い後悔に襲われて、指先は震え、目に涙が溢れてきた。
「三浦さん、ごめんなさい。そんな過去があるって知らなくて……」
言葉にならないくらい、私は泣いていた。入院中の小学生たちが心配そうに見守っている気配を感じる。
それでも、涙が止まらなかった。兄を亡くしたことと、心臓疾患を患いながら子供時代を過ごしたこと、どっちが哀しいか比較することはできないし、比較するべきではない。
だけど私は――。自分の哀しみに流されて、相手の背景を考えようともしなかった。それに、いつまでも意地を張って、嫌な態度をとってしまった。やなヤツって思われているだろう。
三浦駿は、私とさやかを、相談室のようなところに案内した。
「どうぞ、座ってください」
自分の正面の椅子を勧めてきた。
「ちょっと待ってて」
そう言い残して、部屋から出て行くと、すぐに缶コーヒーを買って戻ってきた。
「これ、良かったら飲んでよ」
ひとつずつ、私たちの前に差し出した。缶を開けてひと口飲むと落ち着いていくのがわかる。
「桜華さんは……何かを抱えているように見えるけど」
三浦駿がいつになく優しい表情でこちらを見つめていた。
「あ、じゃあ、私はお邪魔みたいだから、先に子供たちと遊んどくわ。ごゆっくり」
そう言い残すと、さやかは缶コーヒーを持って相談室から出て行ってしまった。
「なんだか、さやかさんに気を遣わせてしまったね」
小さく私は、頷いた。
兄のことを話そうか迷っていた。ふと顔を上げると、視界に穏やかな表情が映る。いつもの青い雰囲気とは違う色を纏っている。伝えてみようか――
「実は私、……今年の三月に兄を亡くしたんです」
「三月に……」
三浦駿の顔は曇った。――まるで、自分のことのように……。
「差し支えなければもう少し聞かせてもらってもいいかな」
そう言いながら、三浦駿は隣の椅子に座った。
私は、静かに頷いた。
思い出す度に哀しくなる。心を落ち着かせるのに精一杯だった。
「五つ年上の兄が、アメリカの大学に三週間臨床実習に行って戻ってくるはずでした。でも……誤発砲の銃弾が心臓付近に命中して即死でした」
黙って頷きながら聞いているその人は、いつもとは別人のようだった。
優しい雰囲気に安心した私は、戻ってきた兄の体に検死の際に銃弾の痕を縫合した傷が、痛々しく残っていたことも伝えた。
「お兄さん、無念だっただろうね……。これからというときに」
瞳は、うっすらと滲んでいた。
「兄の死を……まだ、受け入れられなくて」
不思議なくらい、素直に話せている自分がいた。
「何の非もない兄が亡くなるなんて、あまりにも理不尽で」
瞳から涙が溢れ、したたり落ちて止まらなくなった。
大きな掌が私の髪の毛をそっと撫でた。嫌な気持ちはしなかった。むしろ、伝わってくる体温に安堵を覚えていた。昔、涼がそうしてくれたように、優しく待ってくれているのが伝わってくる。
言葉はなかったし、いらなかった――
張り詰めていた心が、ゆっくりと緩んでいく。
「――駿って呼んでくれないかな」
恥ずかしそうにつぶやいた。
心がじんわりと温まっていくのを感じた。
さっきまで苦手だった彼のことを、もっと知りたいと思った。
「駿……」
今度は、私の頬が朱色に染まっているのかもしれない。
「桜華さん、お兄さんのことを知らないのに余計なことを言ってごめん」
駿の瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。張り詰めていた心が、ゆっくりと緩んでいく。
「こちらこそ……入院していたことがあるって知らなくて。駿……の言葉が、なぜ説得力があるのかよくわかったの。ごめんなさい」
私たちは、どちらからともなく掌を差し出し、握手をした。その手のぬくもりは、体中に広がっていきそうな温かさだった。緊張して固くなっていた肩の力が抜けていった――信頼という言葉が浮かんできた。
「兄ちゃんたち、遅いぞ」
プレイルームに一歩入るなり、元気な声が聞こえてくる。
「さやか姉ちゃんと、ボードゲーム、三回もやってさ、二勝一敗だったんだよね」
その少年は、満面の笑顔を浮かべた。
「ごめん、ごめん、遅くなっちゃって。今度、どんなイベントをしようかって相談してたんだよ」
私は駿のごまかし方に感心しながら聞き入った。さやかのにやにやした視線が、私の横顔に刺さる。気付かないふりしてやり過ごそうとしたけど、そうはいかなかった。
すっと近寄って来て、私にウインクすると
「何があったのか、後で教えてよね」
つぶやいて子供たちのところへ、また戻って行った。
「イベントって?」
駿に聞いてみると、いたずらな表情を浮かべた。
「また、ここに来てよ。夏休みのイベントをしたいんだけどさ、人手が足りなくて」
夏休みも、ここで過ごさなくてはいけない子供たちの境遇に胸が痛んだ。きっと駿も、小学生の頃はそうだったのだろう。
「いいわよ。さやかと一緒に参加するから」
駿は嬉しそうだった。
「そうだ、村松のヤツも誘ってみようか」
駿は意外とコミュニケーション力がある人なのかもしれない。意外な一面を発見する。
「それ、いいと思う」
私の表情も自然に笑顔になっている。今度から、医療倫理学の時間が心待ちになりそうな予感がしていた。
子供たちと遊び疲れたさやかが、そろそろ帰りたいと言い出した。私たちは、駿よりも早く退散することにした。
「姉ちゃんたち、もう帰るの?」
「今日はね。また来るからね」
さやかは既に、子供たちの人気者になっていた。さやかは、人と壁を作らないタイプなのだ。でなければ、さやかとこんなふうに実習に一緒に来たりできなかっただろう。
来週もここに来て、子供たちと関わりたいと思っていた。夏休みのイベントも気になっている。
「さやか、今度、三浦駿に缶コーヒー奢らないとね」
「え、覚えてたの?」
「もちろん」
帰りがけの会話も弾んでいた。
翌週の医療倫理学の時間、村松君はどこか怪訝な表情を浮かべていた。これまでの険悪な空気感が一蹴されていることに気付いたのだろう。それに呼び方まで変わっている。
「なんか、三人共、これまでと違っていい感じだね」
正直な村松君らしい言葉だった。
「何かあったのかい?」
その言葉に、さやかが声を上げて笑った。
「二人がね、院内学級に来てくれて学習ボランティアをしてくれてさ」
「なんか三浦まで柔らかい雰囲気になってる。どうした?」
「ま、そういうことでさ、村松君も来ない? 院内学級、楽しいよ」
「まあ、興味ないわけじゃないけど……」
駿は「名前を登録しておくから」といたずらな笑顔を浮かべた。
そこから私の大学生活は、医療倫理学の四人で過ごすことが増えていった。
人と関わることが苦手だった私が、夏休みになると院内学級でお化け屋敷のイベントを開いたり、子供たちに学習サポートをしたり、笑っている自分が増えていった。
イベントの準備物を買い出しに行くとき、院内学級の様子をシェアするとき、気付いたら、駿と一緒にいることが当たり前のようになっていた。
涼を失った哀しみは減っていった訳ではない。けれど駿と過ごす時間が、私の喪失感を少しずつ埋めてくれた。さりげなくて大きな優しさが、私を包んでくれたのだ。
大学二年生になる春休み、私たちは初めて二人で少し遠くまで出掛けることになった。東陵医科大学の付属高齢者施設で実習をすることになったのだ。
「プロフェッショナルカリキュラム」の一環で、「老い」を「医療」でどう支えていくのか、五日間の実習を通して考え、プレゼンにまとめることがこの実習の目的だ。熱海の高齢者施設に、東陵医科大学から配属されたのが駿と私の二人だった。他の大学からも参加して十名ほどになるらしい。
東京から熱海の高齢者施設まで、東海道線の電車に揺られながら移動をする。私たちは前泊で、実習施設へ向かうことにした。旅行気分を味わいながら駅弁を頬張る。食べながらお喋りしている駿に、青い雰囲気はなかった。
だが、彼は医療のことになると、青い雰囲気を身に纏い、理路整然と持論を展開していく。そこが、駿の聡明さを物語っている。今は、冷たく感じるよりも、尊敬している。
電車の窓から海が見えてきた。その海は、これまで見たどの海よりも美しかった。熱海駅に到着すると、駿はそわそわしている。実習に心配でもあるのだろうか。
「駿、どうしたの?」
「桜華さん、実習施設に行くのはまだ早いから、美術館に寄っていかない?」
「いいわよ」
私のひと言に、駿は満面の笑みを浮かべた。そういえば、見たい作品があるって言っていたのを思い出した……。
「熱海駅からバスで十五分くらいなんだ」
「楽しみだわ」
駿の表情が、いつもに増して生き生きしている。バスは小高い山の方へ走っていく。窓から入ってくる風は、どこか潮の香りがした。
美術館に到着すると、駐車場から駿河湾が一望できた。どこまでも続くその青は、濃い深い群青色だった。潮風が髪を揺らしていく。
エントランスを抜けると、駿はエスカレーターを案内してくれた。そのエスカレーターが少しずつ上がるにつれて、頭上に大きな円形のドームが近づいてくる。そのドームは万華鏡のように光の色が様々に変化し、美しい音楽と共に私を魅了していく。
駿河湾のように濃い深い群青色の中に、白や黄色や橙の模様が浮かび上がり、今度は、全体が淡い黄色になったかと思うと、紅色が次々に浮かび上がる。ピアノの旋律も色と共に流れていく。少しずつ変化を繰り返しながら、煌めきが降り注ぐ。
「きれいね」
思わず口から出た言葉に、駿は頷いた。
「だけど、桜華の方がきれいだ」
聞き間違いか、冗談なのかと思って表情を伺う。駿は真顔だった。呼び捨てにされたのも初めてだ。鼓動が高鳴る。この日の駿は、いつもと違っていた。
円形ドームの下を歩いて行く駿が、ゆっくりと振り返る。
「桜華――」
真剣な眼差しが、私の心を揺さぶる。
「君のことを……もっと知りたいんだ」
駿の言葉は熱を帯びて、私の心に低く響いた。焦げ茶色の瞳に吸い込まれそうになる。頷いて「駿……」と言った唇に、彼の唇が重なる。とても温かくて、柔らかい優しい唇――私の唇をゆっくりと確かめていく。
体中の力は抜けていき、バッグが肩から落ちた。駿は、重なった唇をそっと離してバッグを拾い、自分の肩に掛けた。
「好きだよ」
そう囁くと、もう一度、二人の唇は重なった。
そして、私は駿の背中に手を回した。密着した体から体温が伝わってくる。とても温かくて、優しい気持ちになった。駿の大きな手は私の髪をそっと撫でていく。安らぎを覚える掌だった。
時が止まっていた。
再び動き出したとき駿は、私の瞳をじっと見つめて「大切にするから」とつぶやいた。
涼を失った心の隙間を優しく埋めてくれるのは、駿の温かい感情なのだろう。私は、これまでにないくらい満たされた気持ちになっていた。
でも、次の瞬間、私の瞳から大粒の雫がはらりと落ちた。駿はその雫を唇でそっと受け止めた。そして私の涙の理由を知りたがった。
なぜ、涙が浮かんでくるのだろう。
その理由は、はっきりとはわからない。――けれど、また誰かを失うことを怖れている自分がいる。私たちには宿命のようなものがあるのだから……
――「なんでもないの」駿の耳元で囁いた。
音楽
南かのんさん
【癒しピアノ】雨の日のお茶会より
Across the Distance ,To You (距離を超えて、あなたへ)
その中の二曲を持ち込みの画像で使わせていただきました。
ありがとうございます💐
プロローグに各話をリンクしています。
