「自分は生きるための選択をしないとだめ」という心のブロックを解除した話。

昨日のこと。

妻が友達と天川弁財天神社(奈良)へ行っていた。

当初の予定では、19時ごろに帰るとのことだった。

帰宅予定に合わせて、
焼いた塩サバ、きんぴらごぼう、みそ汁を
用意して待っていた。

19時になって、少し遅れる旨の連絡があったが、
結局19時半になっても帰ってくる気配が無かった。

2回目の連絡もない彼女に
少しずつ苛立ちが募っていった。

「イラッ…」

なぜか先に食べようとは思えない。

空腹で集中力が切れていたのに、
ただひたすら待っている自分がいた。

大した理由もなくイライラし、
自分を優先する行動もできない。

こんなときは、
大抵が心のブロックが作動しているときだ。

そこで、
どんな思い込みが働いているのか?
内観してみることにした。

すぐに浮かんできたのは、

「彼女が楽になるように料理をしたのに、
 自分の気持ちが雑に扱われているように感じた」

という思いだった。

なぜそんな気持ちが生まれたのか、すぐに理解できた。

それは自分が小さい頃のことに関係していた。

ほぼ毎日、酒に酔った父が叫んだり暴れていた。

小学のバレー部活動で門限を守れない、
母親の味方をする私を見て寂しかったなど、
私にはどうしようもないことや、
過去のことを持ち出しては怒鳴ってきた。

小学高学年になるころには、
父の態度にもう耐えられないほどウンザリしていた。

いつの間にか父に対して、
機嫌を取るようになっていていた。

例えば、
父に海に誘われたら、
行きたくないのに「うん、行きたい!」と言ってみたり、

土日に遅くまで友達と遊びたいけど、
門限を優先して早めに帰宅したり、

「お父さんはかっこいいよ」と褒めたりしていた。

怒鳴られても、
機嫌取りをしている間の父は優しかった。

そんな父を見て、
「どれだけ怒られていても機嫌取りをしないと」
と強く想った。

生きるためには機嫌取りをするしかなかった。

そうして心に、
”自分は生きるための選択をしないとだめ”というブロックが
できてしまったのだ。

帰りが遅くなった彼女からの連絡がなくて、
”自分は生きるための選択をしないとだめ”と感じたことで、
苛立ちが湧き上がっていたのだ。

生きるための選択。

つまり、

・彼女が楽になるように料理を作って、
・一緒に晩御飯を食べようとしている。

なのに連絡がないのにイラついたのだった。


生きるための選択をしないといけないなら、
先にご飯を食べて空腹を満たせば良い話では?

と自身の矛盾に気付いたとき、
胸の奥からイライラやザワザワが
あふれてきた。

その奥にある「悲しみ」を
感じた途端に涙が出てきていた。

あのときは子どもだった。

家から逃げることもできなくて、
父親や母親が機嫌をとって「生きる」しかなかった。

もっと自分の心を支えて欲しかった――
そんな思いがこみ上げてきた。

ひとしきり泣いたら心がスッキリしたので、
先に晩御飯を済ませ、機嫌よく妻を迎えられた。

もし心のブロックをそのままにしていたら、
イライラが怒りに変わり、拗ねたり、怒りをぶつけたりして、
妻とギクシャクし、気まずい夜を過ごしていただろう。



「自分の心が現実を創っている」

すべてはこの仕組みに沿っているので、
「自分の事情を分かってもらえない」という
心のブロックが解除された今、

現実がどう変わるか楽しみで仕方がない。

具体的な変化については、また後日に書くつもりだ。

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