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アボカドを押す

 私の母は料理が得意で、専ら和食に強かったと思う。無論洋食も美味しかったが、頻度は和食に比べて少なく、伴ってアボカドやズッキーニ、あるいはバジルのような野菜・香草類が食卓に出てくることはなかった。テレビでアボカドだのアボガドだのと言っているのはまさに向こう側の話だった。
 初めてアボカドを食べたのは、上京してから行った居酒屋で食べた、マグロとの和え物だっただろうか。野菜とは思えないねっとりとした口当たり。森のバターと呼ばれていることは知っていたが、噂に違わぬ高貴な悦楽にも似たその食感が、紛うことなきバターを想起させるのは難くなかった。普段はマーガリンしか使ってこなかった私が、賽の目状になった高価な油の塊をかじっているのだという背徳は、アボカドが口の中でほどけていくのと同期して脳の表層をだらしなく溶かした。
 以来、アボカドコンプレックスとも言うべき抑圧された焦がれる思いが少しねじ曲がったかたちで解放され、味も去ることながら、皿にアボカドがあるだけで洒落たものに感じてしまう体になった。

 自ら買うようになり、スーパーにおける食べ頃の見極めの難しさを知った。見た目の鮮やかさや大きさで判別しにくく、硬さで熟度が分かる。いつ食べるか決まっていない場合は家で程よい硬さになるまで寝かせれば良いのだが、大抵の場合は一両日中に食べたいがために買う。となると、陳列の段階である程度熟して柔らかくなっているものを選別する必要がある。しかし、カゴのアボカドを手に取っただけでは皮が厚くて硬さが分からない。だから親指で軽く押して、硬かったら元の位置に戻す。他の野菜を買う時には無い、一定の後ろめたさが首筋の辺りに残る。これから誰かが食べるであろう果実を凹ませて元に戻す度、まるで付き合う気もないのに体の関係だけを結ぶ時のような、不道徳的な感触が親指から脊髄にゆるりと走る。
 1600年代ヨーロッパでは「栄養価が高く、性欲を増強させる」と言われ、スペインにおいては庭での栽培が禁じられたという。
 買ってきたアボカドを縦に一周切れ込みを入れ、捻って2つに分ける。包丁の刃元で種を取り、手で皮を剥く。あまりに柔らかすぎると果実は崩れて手にまとわりつく。私はそれでまた、何かを思い出す。薄切りにして、カイワレと一緒に生ハムで巻き皿に並べる。オリーブオイルを掛けて岩塩とホールのブラックペッパーをガリガリと適量削れば完成。
 洒落た味をお手頃価格のワインで洗う。
 地元を離れ、知らなかった味を知り、「思えば遠くへ来たもんだ」というフレーズが浮かんだ。何だったかなとスマホで調べると、今の感覚ではお洒落とは言い難い長髪の男が、ボストンバッグ片手に歩く画像が出てきた。

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