見出し画像

伝えたいから、長くなる/夏目漱石『こころ』を読んで


先日、夏目漱石の『こころ』を読んだ。
お恥ずかしながら、アラサーにして初めて全文を読んだ。

これまで昔の文豪の作品には全然興味がなかったのに急に読む気になったのは、小説・ドラマの『舟を編む』に『こころ』が出てきたからだ。

辞書監修の松本先生が、主人公マジメの下宿先(片思いの女性も同居)に西岡も引っ越したらどうかと提案する場面。

「残念ですね。漱石の『こころ』を、現代によみがえらせるチャンスだと思ったのですが」
(中略)
「言葉は知っていても、実際に三角関係に陥らなければ、その苦しみも悩みも十全に自分のものとはなりません。自分のものになっていない言葉を、正しく解釈はできない。辞書づくりに取り組むものにとって大切なのは、実践と思考の飽くなき繰り返しです」

三浦しをん『舟を編む』(光文社文庫、p.69-71)


文学上の三角関係の苦悩を若者に実践させるためだけに、引っ越しを勧める先生。さすが別名「辞書の鬼」(笑)


ドラマ第3話にも、このシーンは登場する。

ドラマでは、みどりがマジメの家(下宿)に引っ越したと知った社外編集者の荒木が「松本先生、これはかつてかなわなかったあの『こころ』の再現がついに…!」と興奮気味に喜ぶが、松本先生は「荒木君、今の時代、その発言は完全にセクハラです」と冷静になだめていた。西岡の時は残念がっていたくせに。笑



夏目漱石の『こころ』について「読んだことあるのは教科書に載っていたところだけ」というみどりに、荒木は「よかったら全文読んでみてほしいな。今を生きる若者に『こころ』はどう響くのか」と言う。

みどりは「でもあれ、遺書長すぎ、怖って感じで…」と顔をしかめる。(ちなみに西岡の感想は「長すぎ、まじウケた」である)

松本先生はこう言った。

しかしそれならなおのこと全文を読んでみてください。なぜ「怖っ」と思うほど遺書が長かったのかその理由が分かると思います

ドラマ『舟を編む』第3話より


小説ではさらっと『こころ』の話は終わるが、ドラマではこの長い遺書と、大学教授の長すぎる語釈と、マジメの便箋15枚に及ぶ長い恋文とがリンクしている。

西岡は『こころ』の全文を読んで、「遺書長すぎマジウケた」から「全部を伝えようとして長くなってしまった手紙だったんだ」という感想に変わったと言う。

全部を伝えたいってなったら、そりゃ足りるわけないよ。辞書のちっちゃなスペースなんて。

ドラマ『舟を編む』第3話より
(長すぎる語釈を出してきた大学教授について)




そういうわけで、しばらく経ってもずっと『こころ』が印象に残っていた。

私も教科書でしか読んだことがなく物語の全体像は知らなかったので、この機会に『こころ』を読んでみることにした。

「夏目漱石=難しい」とずっと思い込んでいたが、いざ読んでみるとスラスラと読めて、2日で読み終わってしまった。

10代の自分では理解できなかったであろうことも、今の自分には「あ〜分かる分かる」とたくさん共感することができた。

昔の言葉で語注を見ないと分からない単語も多かったが、それでも心理描写は令和を生きる私にも理解できることが多かった。名作として語り継がれる作品は、どの時代の人にも共通する普遍的なことが描かれているから名作なのだなと改めて思った。


「上中下」の「下」の部分にある遺書を書いた「先生」は色々とこじらせまくって頭でっかちな男だったが、「上・中」の主人公である「わたくし」は比較的素直で行動力のある人だと思った。


冒頭から面白い。

私はその人を常に先生と呼んでいた。(中略)筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

夏目漱石『こころ』集英社文庫(p.6)


先生の遺書では、親友を「K」と称して書かれている。「よそよそしい頭文字=K」だろうから、先生の遺書をちょっと皮肉っているようで面白い。


『こころ』の感想というと、Kや先生の自殺という悲劇、三角関係の恋愛模様について語られることが多いと思うが、ここでは書かない。私が『こころ』を読んで感じたのは「描写が細かい!言語化の鬼!」ということだ。


読んでみたら、ストーリー自体は複雑ではなかった。

先生に憧れる若者。どこか暗い影のある先生。
先生の悲しい過去。先生がひとりで抱えてきた苦しみ。

それだけの話。よくありそうな話。


私がおもしろいと感じたのはストーリーや悲劇そのものではなくて、どうしようもない人間の「こころ」の中を、これでもかというほど細かく、しつこく、生々しく言語化して描写した夏目漱石の表現力だった。


自己肯定感の低さ故に他人に冷たい態度を取ってしまう人間の心理を、夏目漱石はこう表現していた。

先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。ひとの懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。

夏目漱石『こころ』集英社文庫(p.14)


長いけど、説得力ある。納得できる。


それはそうと、塩対応にもめげずに足繁く先生の家に通う主人公がかわいい。メンタル強いな。陽キャか。

 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるにつれて、私はますます繁く先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になったその後も、あまり変りはなかった。

p.19

私は最初から先生には近づきたがい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。(中略)それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、ーーこれが先生であった。

p.19


主人公は、誰よりも先生を理解しているし、憧れに留まらない感情を抱いていると感じた。それがソウルメイト的な感覚的なものなのか、恋愛なのか、尊敬なのかは分からないが、先生を失った自分の悲劇よりも、鍵をかけて閉じこもっていた先生のこころの扉をついに開くことができたこと、先生が抱えてきた葛藤や苦しみ、矛盾や罪をついに共有してもらえたことを嬉しく思っているように見えた。



「私」から見た先生と、先生から見た「私」の二人のこころの描写を比べると、やはり先生はいつも「自分自分自分」で自己中心的だなと思った。他人の行動も観察ばかりするわりに相手との対話を避け、勝手に「相手のこころはこうだ」と決めつけて、独りよがりに見えた。

親友を裏切ってまで手に入れた奥さんを幸せにすることが本当の償い、一生背負っていくべきことのはずのに、奥さんを置いていくなんて。自分勝手にもほどがある。なんだこの男は。


それに比べて「私」はいつも「先生先生先生」で、どれだけ先生のこと好きなんだよ!という感じ。分からないことはすぐに質問するし遠慮がない。だけどその素直さが可愛くもある。愛嬌がある。若さゆえなのかもしれないけれど。先生だって、悲劇さえ起こらなければただの優しい愛妻家だったかもしれない。その変化が哀しい。



小説は先生の遺書で終わってしまうので「私」のその後の人生は描かれていないが、なんとなくこの青年は、先生への愛を大事にしつつも強く生きていくのではないかと思った。他人への愛が深い人だし、先生やKみたいに、ひとり篭って考えてばかりいないで、思ったらパッと行動に移せる人だから。


賢さや考えることも大事だけど、やっぱり人間、暗いってダメだ。辛気臭いのは良くない。植物が太陽の方を向くように、人間は明るさや素直さに自然と惹かれるように出来ているのかもしれない。

だけど、どれだけ理屈が分かっていてもどうしようもなく暗くなることだってある。鬱々とした気持ちから抜け出せないでもがく時もある。心の闇から逃げられずに、自ら命さえ絶ってしまう人がいるのがこの世の現実でもある。悲しいけれど現実としてある。それもまた、人間のこころ。



最後に、私が最も共感して印象に残ったところを引用する。主人公が実家に帰省したときの描写だ。

私がのつそつ*し出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐になって来た。これは夏休みなどに国に帰る誰もが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。

p.65
(*のつそつ=することがなく退屈なさま)


分かる。分かるよ漱石先生!
実家あるある、明治時代から変わらないのね。

私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。

p.66

どの時代の親子も、話すことはほぼ同じ。

時代が変わっても、人間の悩みや感情は、同じ。
みんな、こころの中は同じ。



現代に夏目漱石が生きていたら、もしもnoteをやっていたとしたら、めちゃくちゃ長文で書きまくるんだろうな。思いの全てを伝えようとして。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集