言語化が、勇気を出す練習になっていた
「もし、noteがサービス終了したら」の話。
私は、どこか別の場所で、個人ブログをやると思う。スタンスや書く内容は今と同じままで。
noteで文章を書くようになったこの2年で、言語化の楽しさや、やる意味を知ったから。
自分の思考や感情を文字に変換しながら頭の中を整理して、それを他者の目に触れられる外の世界にちょっと勇気を出して公開してみる。その仕組みが、自分自身の内省に役立つのだと分かった。
特にこの「ちょっと勇気がいる」というところが、すごく大切な気がしている。
ひとり、誰の目線も気にせずに日記にありのままに思いを書き綴るのも気楽で楽しいけれど、日記に「勇気」はいらない。
「いつか家族や身近な誰かに読まれるかも」という意識は(書いて即削除 or 紙を捨てない限り)あるかもしれないが、noteやブログのように「書いてすぐに世界に公開して他者に読まれる。場合によっては反応がある」ということはないだろう。
"世界に公開する"というアクションと、"ちょっと勇気が必要"という要素が、私の「言語化の練習」には重要で有効だったのだと思う。
その小さなプレッシャーこそが、私にやる気と達成感をくれた。三日坊主の私でも、ここまで継続できた。(うち8ヶ月はやる気失せて何も書いてないんだけど逃げずにまた再開したので継続期間にカウントする笑)
そして、もっと言えば「言語化の練習」だけでなく「勇気を出す練習」にもなっていたのかもしれない、とも思った。
人が勇気を出す時、そこには「怖い」という感情が必ずあるはずだ。
「ちょっと怖いけど、公開してみる」
「本当は怖いけど、声をかけてみる」
「すごく怖いけど、挑戦してみる」
怖さレベルに差はあれど、「怖いけど、でもやってみる」という葛藤と行動がある。
「怪我するのが怖いから自転車に乗らない」と言っていてはいつまで経っても乗れるようにならないように、文章だって「怖いからやらない」と言っていては、いつまで経っても上達しない。
文章じゃなくても、仕事でも進学でも習い事でも恋愛でも結婚でも育児でも、人生には常に「怖いけど飛び込んでみる」が付きまとう。
逃げられないなら、うまく付き合うしかない。苦手なら、逃げるより練習した方が早いかもしれない。
勇気だって本気で練習すれば、簡単に出せるようになるかもしれない。
そんな「葛藤に打ち勝つ勇気の練習」の一つが、私にとってはこの「言語化したものを、恥ずかしいし怖いけど世界に公開してみる」ということだった。
ちょっと大げさか?笑
いや、でもほんとにそうだった。noteでの発信って、XよりInstagramより結構勇気いると思うし。
ともかく、私の場合は「文章が上手くなりたい」とか「誰かに共感してほしい」よりも「自分の考えを外に出す、その"勇気"を出せるようになりたい」という動機が根底にあったのかもしれないな、と気づいた。今、書きながら。
臆病者で、怠け者で、卑怯者な自分が本当は嫌だった。そういう自分を、ちょっとでも変えてみたかった。
noteという場所で文章を公開するようになっても、そういう自分はあまり変わらないなと分かったけど、そういう自分を「まぁ、それも自分だよね〜」と受け入れられるようにはなった気がする。怠け者な自分も、もはや書くネタ。治せないなら、活かせばいい。
そもそもnoteに集まる人たちは優しい人が多いから、今のところ私の感情や思考を、誰かから否定されたり侮辱されたことはない。もちろん個人情報は書かないけれど、ここでは安心して心の内を自己開示できる。
そういう場所があるか、ないか。そういう場所に飛び込む勇気を出すか、出さないか。自分の本音を打ち明ける勇気を出すか、出さないか。
今の時代、開示できる場所はいくらでもあるから、たとえnoteという場所がなくなったって、人間がいる限りコミュニティはゼロにはならない。
だから、あとはそこに飛び込む勇気を出せるかどうかだけなのだと思う。
私は、当初の頃ほど勇気を出さなくても、自分の文章を公開できるようになってきたよ。言語化練習のコツがちょっと掴めてきたような気がするし、前に比べて自分の感情や考えを見つめる癖がついたよ。自分との対話が前より楽しくなってきたよ。
「noteという場所ありきの書く」じゃなくて「書けるならどこでもいいのかも」に変わってきたよ。
以前に比べて
"勇気レベル"が上がってきたような気がするよ。
本当にちょびーーーーっと、
「グリフィンドールに1点!」くらいだけどね。
