悪いあの人、かわいそうなわたし / 岸見一郎・古賀史健 『幸せになる勇気』
ベストセラー『嫌われる勇気』の続編である『幸せになる勇気』を初めて読んだとき、一番印象に残ったのがこのタイトルの言葉だった。
哲人は、三角柱を用いて私たちの心の仕組みを説明する。
一面には「悪いあの人」、もう一面には「かわいそうなわたし」と書かれている。今いる場所からは、その二面しか見えない。多くの人はここを見ていて、これについてばかり語ると言う。
では、三角柱を回したら、つまり物事の見方・目線・考え方を変えたら、残りの一面には何が見えるか?
哲人 でも、われわれが語り合うべきことは、ここにはないのです。あなたがどんなに「悪いあの人」について同意を求め、「かわいそうなわたし」を訴えようと、そしてそれを聞いてくれる人がいようと、一時のなぐさめにはなりえても、本質の解決にはつながらない。
青年 じゃあ、どうするのです!
(中略)
哲人 そう、われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。あなたがどんなに大きな声でそれを訴えても、わたしは聞き流すだけでしょう。
アドラー心理学に「魔法」はありません。ミステリアスな魔法よりも建設的で科学的な、人間への尊厳に基づく、人間知の心理学。それがアドラー心理学なのです。
語り合うべきは、「これからどうするか」
それだけ。
アドラーのこのドライで淡々としている感じがすごく好きだ。
「良い方向へ進むためには何をしたらいいか?」というような建設的で前向きな質問(批判する人ではなく学ぶ人の質問)を頭に思い浮かべる『質問思考』というものがあるが、言っていることはアドラーと全く同じだと思う。
↓読んだのはこれ。また違うときにこの本についても書きたい。
「悪いあの人」は、他人だけではなく「悪いわたし」にも当てはめられると思う。
優しすぎる人は、人のせいにはしない(できない)代わりに、「私が悪いんだ、私のせいだ」と自分を責めてしまう。
「かわいそうなわたし」は言い換えたら「周りに迷惑をかけて申し訳ない」とかに近いかな?なんかしっくりこないけど。
もちろん、感情を我慢せずに吐き出すのはめちゃくちゃ大切だと思う。
でも、落ち着いて冷静になったあと、反省して次に活かすならいいけれど、いつまでも必要以上に落ち込んだり、いつまでも怒りのまま周りを攻撃したりするのは無駄だと思う。なんの解決にもならない。
小学生高学年くらいから中学生あたりまでの私の思考回路は、まさにここ(悪いあの人、かわいそうなわたし)だった気がする。
友達の悪口を言ってしまったことは何度もある。反省はしているが、逆にそれが未熟だった証拠、健全だった証拠だとも思う。特に思春期入りたての中学生なんてみんなそんなもんだと思う。
高校生くらいから、「人の悪口を言っててもなんも意味ないな、自分の評判を落とすだけだからやめよ」と思い、人のことを悪く言うのは意識的にやめた。(たぶん言ってなかったはず)
偏差値が高いと言えるほどではなかったが、普通の進学校だったので、周りの人もみんな割と落ち着いていたし、そもそも悪口を言う人自体があまりいなかったというのも大きい。やっぱり外部環境からの影響は大きい。
「かわいそうなわたし」は、大学生になり色んな人に出会うようになってからあんまり思わなくなった。
悲観したところで、状況は変わらないからだ。文句を言っていても何も良い方へ進まないのがようやく理解できて、文句ばっかり言う大人はダサいんだなということだけ分かった。20歳くらいでようやく。
話は変わるが、
noteで他の人の書いた文章を読むと、なんだか風情があるというか、余白があるというか、すごく温かくて余韻のある素敵な文章だなぁとよく思う。
その後に自分の文章を見ると「なんかドライだな、風情がないな」と思う。
「うん、傷ついたよね、怖いよね・・・そんでさ、これからどうする?何ができるかな?」って早口な感じというか、冷たいというか、せっかちというかガサツというか、色気がないというか情緒がないというか。(適切な形容詞が思いつかない)
うーん。
それが文章に表れる私の人柄なのかなぁ。
仕方ないんだけど、なんかやだな。笑
アドラーのドライさは好きなんだけどなぁ。
ちゃんと論理的に思考できるようになりたい。
でも優しさもある文章も書けるようになりたい。
うーん。バランスが欲しい。
優しくて、風情もちょっとあって、でもちゃんと建設的な感じが理想だな。
