【古今名婦伝】玉照姫(たまてるひめ)

玉照姫
美濃守何某の女なりしが、家凶びて尾張國鳴海長者に身を偶たり。容顔勝て美麗かりしかば、長者の妻、妬心を逞して、日毎、野の草を刈せ、海の潮を汲せ、苛く使て、旱天雨日も笠だに着せず。
或人 哀みて、笠一蓋を与へけるに、雨ふる日、田植してかへり来るに、此辺に立せ給ふ十一面観音の濡佛の前をすぎつ。這は、寺荒れ 堂壊れかゝる体にて、ぬれ/\在するが、身にひき比て痛しく、吾傘を観音に奉り、「亡父母吾身現當利益」と廻向して帰り。
かやうの功徳むなしからず。
照宣公の公達、兼平の中将、東國下向のとき、不計見そめられまゐらせたり。兼平君はやがて玉照を倶して、帰洛の後、北方仰たり。依之、報恩為、伽藍を再建あり。今の笠寺是也。
『冬の日』 哥仙 荷兮の附句に
笠ぬぎて 無理にも 濡るゝ 北しぐれ
※ 「兼平の中将」は、平安時代前期から中期にかけての公卿 藤原兼平。
※ 「北方仰たり」は、妻にしたという意。
※ 「冬の日」は、江戸時代前期の連句集。編纂者は荷兮。
※ 「荷兮」は、俳人の山本荷兮。芭蕉門下で名古屋の人。
※ 「哥仙」は、歌仙。
※ 参考:『芭蕉翁全集(冬の日)』『冬の日注解』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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玉照姫は、平安時代を生きた女性です。

生没年不詳(平安時代)
美濃守の何とかという人の娘に生まれましたが家が滅び、尾張国の鳴海の長者に侍女として身を寄せていました。
※1 『名古屋案内』によると右京前司美濃守重満(前司は前任の国司のこと)。
※2 鳴海の長者太郎成高。『名古屋案内』では、成高と読ませています。
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ある雨の日、娘が田植えをして帰る途中、雨に晒されている観音像が目にとまりました。娘はこれをとても痛ましく思い、自分の笠を脱いで観音像に被せてやりました。

この観音像は、聖武天皇の時代にこの場所に建立された小松寺の本尊で、開基の僧・禅光(善光)が自ら彫った十一面観音像です。その後、寺は荒廃し、本尊の観音像だけが風雨にさらされる状態となっていました。
娘がこの観音像に笠を被せていたちょうどその時、都から東に下る途中の藤原兼平が通りかかりました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『尾張名所図会 前編 巻5』
藤原兼平は、藤原北家の権力を固めた藤原基経の三男で、母の操子女王は嵯峨天皇の第四皇子 忠良親王の娘にあたり、権力と家柄ともに申し分ない人物です。

観音像に笠を被せている美しい娘に心惹かれた兼平は、娘を玉照姫と名づけ、京に連れて帰り、妻としました。
絵に描いたようなシンデレラストーリーですね。💍
延長八年(930年)、藤原兼平と玉照姫のふたりは、この地を訪れて寺を復興し、名前も笠覆寺(笠寺)と改めました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所圖會 6巻 [3]』
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江戸時代の末頃に刊行された『尾張名所図会』には堂々たる伽藍の様子が描かれていますが、これはふたりが復興した当時のものではなく、その後再び荒廃と復興があり、宝暦十三年(1763年)に建造された本堂であるようです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『尾張名所図会 前編 巻5愛智郡』
本堂の左手には「玉照姫」の堂が見えます。

明治時代に入り廃仏毀釈によって再び荒廃が進みますが、昭和時代に再び隆盛を取り戻し、現在に至るそうです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『名古屋の名所旧蹟』
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笠ぬぎて 無理にも濡るゝ 北しぐれ
※ 参考:『尾張志5愛知郡(笠覆寺)』『名古屋案内(笠覆寺)』『江戸叢書:12巻 巻の七(星崎の郷笠寺観世音居開帳)』『尾張名所独案内(笠寺)』『帝國地名辭典 上卷(笠寺)』『愛知県紀要(笠覆寺)』『張州府志 第2(宅址)』『尾参宝鑑(長者屋敷)(鳴海長者成高)』『姓氏家系大辞典 第3巻(鳴海)』『芭蕉句集新講 上巻(笠寺)』
(国立国会図書館デジタルコレクション)
筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。
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