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5で面白いのはGTAだけだと思ってた「トイ・ストーリ5」

「あちし、よく変わってる〜っていわれるしーそれ褒め言葉だけどー」
みたいな、いかにもトー横あたりで明日なき世界を生きるぶっちぎりにメンタルがイカれた女みたいな世迷言はなるべく口にしないよう、自分は凡夫凡人と言い聞かせ、自分なりに人に沿って、社会に沿って無難に生きてきたと思うのだが、一つだけ、ここだけは人と大いに違っていたという自負がある。それは言うなれば、
「あちしーよくゲームの趣味が変わってるって言われて〜それマジの褒め言葉だから〜!」である。

これを見て「やりたい!」と思える人が真の友

洋ゲー。
俺が小学校中学年くらいからガッツリと気を持って行かれたのが、何を隠そうこの「洋ゲー/海外ゲーム」であった。周りの友人がやれマリオだゼルダだドラクエだと言っているのを尻目に、俺は常に上の空で洋ゲーのことばかりを考えていた。
きっかけは今でも忘れない、「ソード・オブ・ソダン」というゲームの紹介記事を読んだことであった。そいつは今まで俺の知っていたゲームとは全てが違っていたのだ。ゼルダの伝説におけるリンクのようなファンシーな感じは一切ないコナン・ザ・グレートを無理やりゲームにしたような筋肉隆々の匂い立つような男、もしくは正気を疑うようなビキニアーマーの、これも同じく筋肉隆々の女戦士が主人公で、何となれば敵にとどめをさすと敵の首がごろりとモゲるという、日本ゲーでは考えられないようなサービスショットまで盛り込まれているのだという。俺はどうしてもこのゲームがやってみたくて仕方がなかった。未知の扉の片鱗を開けられて、お預けをされたまま大人しくしていることなどできなかったのだ。

絶対にキャラグッズ展開などはないと確信できる造形

しかしながら道のりは困難を極めた
今でこそ洋ゲーはPlaystation Storeなどでも容易に手に入り、本体のリージョン制限も緩和され、誰でも簡単にいろんな国のゲームができるようになった。しかしかつて、昭和の時代においては繰り返しとなるがそれは荊の道であった。まずそもそもソフトがないどこに売っているのかも分からない。無論、中古ゲーム屋などでも並んでいるのをみたことがなかった。また、ハードの問題もあった。例えばファミコン、スーパーファミコンにおいては、そもそものカセットロムの仕様が違うため海外のソフト(カセット)を買ってもそのままでは使えない、日本の本体との互換性がないのである。つまり洋ゲーをやるには洋ゲー用の本体まで用意しなければならないという、小学生の経済事情には絶対に無理な難題が存在していた。

そもそもロムの形が違う。
日本の本体でやるには変換アダプターが必要

しかし、調べを進めるにつれていくつかの光明が見えてきた。
当時、セガメガドライブというコンシューマー機があったのだが、これの海外版「ジェネシス」のゲームソフトは、そのまま日本のメガドライブでも使えるというのだ。これは画期的であった。少なくとも本体問題はクリアできた。そして前述の「ソード・オブ・ソダン」は幸運なことにこのジェネシスで展開されていたソフトだったのだ。

セガ全盛期の機体。
良ゲーが多かった。奇ゲーも同じくらい・・

俺は興奮した。あと少しで夢にまでみた洋ゲーに手がとどく、あとは買える場所を探すのみ、という段になって、ようやっと辿り着いたのが秋葉原の「メッセサンオー」であった。
当時はまだカオス館などの表示もない、ただのメッセサンオーで、電気屋の2階に上がると、そこには壁中に洋ゲーの原色、バタくさい、おどろおどろしいポスターが貼られており、所狭しと陳列されたさまざまな洋ゲーと謎の周辺機器がさらに怪しさと好奇心を駆り立てていた。
天国だった。
日本では絶対にありえないようなジャケットデザイン、パッケージの裏を返すと、中身が想像すらできないようなゲーム画面が印刷されていて、一体どんな宇宙が広がっているのか、どんなに面白い設定なんだろうかと、ただただ無秩序に好奇心をこねくり回してくる、そんな空間だった。

閉店時の写真。

ある日、貯めていたお年玉を握りしめて、とうとう俺は「ソード・オブ・ソダン」を購入した。
そしてプレイした。
・・意味が分からなかった。
まず操作性が意味不明で、右に、左に向くのにわざわざ何かのボタンを組み合わせる必要がある。敵がなんかのポーションを落とすのだが、その効果は不明だしヒントもない。飲むことで剣が燃えることもあれば即死することもあった。さらにそのポーションを組み合わせることで、ただでさえ分からない効果をさらに変えることも可能。雑魚敵がボスくらい硬くて、油断すると即死ぬ。そしてBGMが一切なく、那須塩原の高原のような鳥の囀りだけが延々と響くだけという、狂気以外の何者でもないゲームであった。
今なら10秒を数えずにゲームを放り出すと思うのだが、なけなしのお年玉で買ったゲーム(ちなみにだけど、洋ゲーは高くて、大体8,000円−10,000円くらいだった)なので、諦めるという道はなかった。俺は薬の効果を一個一個調べ、敵のパターンを研究し、念願の首落としもやって、そして最後はクリアまでしたのだ。今思っても人生でこんなに頑張ったのは後にも先にもこれくらいだった。そんな自分を本当に褒めてやりたい。

それからも洋ゲー熱は高く、「ポピュラス」「NBA」「スライムワールド」などを楽しみ、スーパーファミコンでは奇跡的にローカライズされた「アウターワールド」や「フラッシュバック」などを楽しんだ。

元祖死にゲー「アウターワールド」
考えたやつもプレイするやつも気が狂ってる。

舞台をplay stationに変えても相変わらず洋ゲーをやり続けた。その中でもド肝を抜かれたのが「Grand Theft Auto」ことGTAである。
車は盗み放題、人は敵でも通行人でも殺し放題という、日本ではありえないような自由度のゲームで、これまたプレイせずにはいられなかった。
程なく大枚を叩いてGTAを購入し、プレイをした。はっきり言っておもしろくはなかった。上空からの見下ろし方のビューで、キャラも小さく、銃弾も豆粒のようなものでそもそも当たりにくく、敵や人を倒す爽快感は皆無であった。盗んだ車をヤードに運んだり、まあ、設定の面白さを感じることはできたのだが、それにしてもゲーム性が悪すぎたのだ。
期待していたゲームに裏切られたような気分になり、俺の洋ゲー熱は冷めたかと思いきや、再び、以前よりも燃え上がることになるのであった。GTA3の発売である。なんと今度はポリゴンによる完全立体で再現とのことで、実際に画面を見てひっくり返った。完全な街が、人がそこにあった。そしてそのまるで実在の街の中で、それこそ現実ではできないような様々なアクションを楽しむことができるのであった。史上最高のゲーム。そう言っても差し支えはないであろう。

当時からしたらあまりに画期的なゲーム性
もう家より外なんていらないと思った。

GTAのシリーズはそれからも不動の人気を維持したままであった。Ⅳはもちろん、Vは一つの完成形として発売から十年以上経つ今でもロングランで売れ続けている。正直シリーズもので常に前作を超えてくるもの、Vになってもまだ面白いものはGTAくらいかと思っていたのだが・・まさかのトイストーリーもそこに名を連ねてくるとは・・!

あらすじ:

ボニーのもとで暮らすバズやジェシー、フォーキーたちは、これまでと変わらぬ日常を送っていた。しかし、最新型の電子タブレット「リリーパッド」がやってきたことで状況は一変。多機能なデバイスに夢中になるボニーの姿を前に、おもちゃたちは自分たちの存在意義に疑問を抱き始める。「おもちゃはもう必要とされていないのか」という不安が広がる中、仲間からのSOSを受けたウッディが再びボニーのもとへ戻り、バズと再会する。かつての名コンビは、おもちゃの居場所を守るため、新たな脅威に立ち向かう。

映画.comより引用

気持ちが入りすぎて前半部分の導入が長すぎて申し訳ない。洋ゲーについてはもう別のブログを立てた方がいい、改めてそれは理解できた。
で、トイ・ストーリーだが、はっきり言って好きなシリーズである。
そもそも「おもちゃのチャチャチャ」をモチーフにしたCGのアニメ、というような触れ込みで上映された1は、いったいこんなもの誰が見るんだ?と非常に懐疑的であったのだが、まあ、感動。キャラの質感、音楽、ストーリー全てが完璧すぎて文句のつけようがなかった。2についても、まあ、1ほどの洗練された感じは落ちた気がしたが、十分に名作でこのトイ・ストーリーのブランドを不動のものにしたと感じた。
そして3。これは3D上映でメガネをかけてみたのだが、メガネの内リムに涙がたまるほど泣いた。アンディが大人になることでの、約束された別れ・・おもちゃたちの変わらない思い、そして・・想いが受け継がれているラストシーン「こいつはウッディ・・西部イチの保安官で・・」という1のオープニングとシンクしたセリフが聞こえた時、気絶するほど俺は嗚咽していた。素晴らしいサーガだった、と心から満足したのだ。
ところがまさかの4の続編制作があると聞いて耳を疑った。え?なんで?おわったじゃん。という、まさに蛇に足をつけるような経営陣の判断に、ポリコレ要素や自己実現(おもちゃが?)という意味不明な設定の導入により、いままでの「子供を喜ばせたい」というおもちゃたちの純粋な思いまでもが汚された気分になり、はっきり言って記憶からも抜け落ちてしまうほどのクソ駄作であった。

そして今回の5であるのだが、今回のテーマは「おもちゃvsタブレット」である。奇しくも初期作と同じテーマ「新旧対決」なのであるが、1がおもちゃ同士の新旧であったのに対して、今回はおもちゃvsテクノロジーという、やや幅広な設計となっている。
内気で友達がいない子供に、どうやって友達を作ってあげようかとおもちゃが、そしてタブレットがそれぞれに手を焼いていく様は、同じピクサーの「インサイドヘッド」にも似た展開を感じる。

言うまでもないが1,2共に名作。

それにしてもここで描かれるタブレット問題は実際に子供を持つ親には本当にセンシティブな問題である。ドパガキという言葉に代表されるように、ただでさえ自己を律することが苦手な子供がタブレットを手にしたが最後、劇中でも出た描写があるが、常に上の空は必須である。実際にファミレスなどでも子供に、それもまだ幼稚園くらいの子供に親が端末を渡して動画を見せているのをたまに目にするが、正直正気なのかと思う?目も頭も感受性も確実に悪くなるのになぜ?と。まあ、育児が煮詰まって、少しでも子供に別のことに集中していてほしい、自分の時間がその間に欲しいという気持ちは大いにわかるのだが、それにしてもyoutubeなんて見させたら、静脈にヘロインを打ち込むのと同じで、もう後戻りはできなくなるのだが・・

ディストピアまであと一歩・・
ちなみに画像は地震災害のVR体験学習だって・・ヤバ

そんな懸念はおそらくこのトイストーリー5の製作陣も持っていたのではないであろうか?今回はタブレット側にはあまり良いエピソードを作っていない(タブレット自体で素晴らしい発見や体験ができた、というような)。そのあたりは多少のアンフェアさも感じなくもないのだが、ともあれ、最後は気の合う友人ができて、楽しそうにおしゃべりしたりお泊りをするシーンを見て、不覚にも涙が溢れてしまった。世界のあらゆる子供たちが、ありのままの自分を好きになってくれるやさしい友達を見つけることができたらいいな、と素直に思える作品であった。そして実は子供に限らず、大人だってそんな友達ができたらいいな、と思うのであった。

・・そう、例えば最初のお泊まり会では日本特有の「難病レストインピース型の恋愛映画」が大好きな仲間でノリについていけず・・もう映画友達なんていらない・・と思っていたところでの「Bring Her Back」を熱く語る友達ができた・・みたいなものであろうか。欲しい、そういう友達。ジェシー探してきて!

「ノートルダムの鐘2」が発表された時くらいビビった。
無茶にも程があるだろ!




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