「謙虚に生きる」とはどういうことか
3児の母で会社員、ももです。
先日、おみくじを引きました。
全体的に良いことは書いていなくて(笑)、その中の一節に
「身の程を知り謙虚に生きよ」
とありました。
謙虚……?
わたしはもともと自信に満ちたタイプではないけれど、謙虚というのとは少し違う気がします。
謙虚ってどういうことだろう?と考えていて、ひとつの解釈にたどり着いたので、共有させてください。
謙虚とは何なのか
謙虚とはどういうことなのでしょうか。
辞書的な意味では、ひかえめなこと、素直に相手の意見を受け入れること。
これが自分に当てはまっているかというと、即答できないのが正直なところです。
ひかえめはひかえめですが、消極的というだけで、ここでいう意味とは少し、いやかなり違う気がします。
そして、素直に相手の意見を聞き入れるか?と言ったら……相手によります。
人は無意識に他人を分類する
「相手による」というところを少し考えてみます。
話の内容ではなく「相手による」ということは、相手のことを信頼しているか否か、好きか嫌いか、という判断が生まれているということです。
信頼関係があるかどうかという前提はありますが、その判断自体はほとんど無意識に行われます。
信頼している、していない。
好き、嫌い。
この人の言うことは信じられる、信じられない。
この人の話は聞くに値する、しない。
自然と他者を分類してしまっているのです。
人に備わっている「二分化」という性質
人間は、誰かを、何かを前にしたとき、それを二つに分類する性質があるのだそうです。
太古の昔、生きるか死ぬかという生活をしていたころ、目の前に突如現れたものを瞬時に判断しなければならなかった名残だそうです。
DNAに刻み込まれたこの考え方をどうにかするのは難しいものですが、知っているのといないのとでは、思考や行動が変わってきます。
謙虚と二分化
さて、話を「謙虚」に戻します。
謙虚というのは、相手の言うことを素直に聞くこと。
それは、受け入れるべきか否か、という判断の答えをすべて「受け入れるべき」とする、ということなのでしょうか。
わたしは、そうではないと思うのです。
そもそもその判断をしない、フラットに聞く。
それはつまり、「二分化」をしない、「二分化」しようとしていることに気づく、ということ。
それができたとき初めて、人は謙虚になれるのではないかな……というのが、わたしのたどりついたひとつの考えです。
謙虚に生きてみる
謙虚は美徳ではありますが、必ずしも謙虚である必要があるか?と言ったらそうではありませんよね。
いまの時代はグイグイいける人が勝てるシーンがたくさんありますし、他人の顔色をうかがうな、自分の好きなように生きていけ、といったメッセージは多くの人に刺さっています。
ただ、今回考えた「二分化」という思考から抜け出すという点では、謙虚であろうとすることは人間として成長できる考え方、在り方のように思います。
神様からの「身の程を知り謙虚に生きよ」というメッセージ、わたしはこんなふうに受け止めました、というお話でした。
しばらく「謙虚」を意識して生きてみます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
