外に足さない生き方。たくさん買って、たくさん手放してきた先で気づいたこと
最近、「足さなくてもいい」と思える瞬間が増えてきました。
物も、感情も、そして期待も。
それは満足した、というよりも、ようやく自分の感覚と音が合ってきた、そんな感じに近いかなと思います。
消費することで、自分を確かめていた頃
少し前まで、私はとてもよく買い物をしていました。
インスタでスキンケアやメイク用品を紹介している人をフォローしては、「これも良さそう」「次はこれ」と、気になるものを次々にカートに入れる。
洋服も、zozotownや中国の格安サイトで、今思えば驚くほどの量を買っていました。
この記事でも、30代前半に感じた感覚の変化について少し触れましたが、
20代の頃は、さらにその傾向が強かったと思います。
たくさん買って、すぐに飽きて、また買い替える。
消費することそのものが楽しくて、「新しい何か」を手に入れることで、自分の輪郭を確かめていたような気がします。
恋愛も、どこか似ていました。
実りがあるかどうかよりも、心が揺れるかどうか。
消耗すると分かっていても、刺激のある関係に惹かれて、気づけば疲れている。
今振り返ると、それは「満たされたい」という気持ちを、外側でなんとかしようとしていた時期だったのだと思います。
ワクワクしなくなった場所で立ち止まった日
変化は、ある日突然やってきたわけではありません。
ただ、気づいたら、同じ場所にいても、同じサイトを見ていても、心がほとんど動かなくなっていました。
ショッピングセンターに行っても、
「あれ? 前は欲しいものだらけだったのに、今日は何も気にならない」
通販サイトを眺めていても、
「これを買った先の自分が、あまり想像できない」
以前は好きだったはずの場所にいるのに、早く帰りたくなる。
ワクワクしない自分に、少し戸惑いもありました。
「私、どうしちゃったんだろう?」と。
そういえば、年齢を重ねてくると、ワクワクとか好奇心が感じづらくなってくると聞いたことがある。
もしかして、心が鈍感になってきているのかな…
でも同時に、どこかで分かっていた気もします。
これは、何かを失った感覚ではなく、基準が変わった感覚なのだと。
「足す」から「調和する」へ、基準が変わった瞬間
物をたくさん買うことも、
恋愛で心をかき乱されることも、
今振り返れば、自分を探している時期にはきっと必要なプロセスだったのだと思います。
あの時間があったからこそ、
「これは違う」
「これは私には合わない」
「私はもっとこうしたい」
という感覚が、頭ではなく身体の感覚として、少しずつ育っていったのだと思うのです。
そして、あるところから私は、
「外から何かを足すことで満たそうとする」よりも、
「今の自分の内側と調和しているかどうか」
を基準に、物事を選ぶようになっていきました。
それは意識して切り替えたというよりも、気づいたらそうなっていた、というほうが近い感覚です。
本当に心が動くものだけを、時間をかけて吟味して選ぶこと。
お気に入りのものを、たくさんではなく、少しだけ持ち、その一つ一つを雑に扱わずに使い続けること。
そうした選び方のほうが、結果的に呼吸が深くなり、生活全体に無理が生じにくいことに、だんだんと気づいていきました。
派手さはなくても、どこか静かで、長く一緒にいられる感じ。
その感覚が、自分の中で「これだ」と腑に落ちたとき、ようやく私は、足し続ける生き方から、調和を確かめる生き方へと、自然に移行していたのだと思います。
この感覚は、人生のあらゆる分野に広がっていく
不思議なのは、この感覚が、買い物や持ち物といった限られた領域にだけ留まらなかったことです。
むしろ、いちばん身近なところから始まったその感覚が、気づけば人生のあらゆる分野へと、静かに、でも確実に染み広がっていきました。
今の私は、
働き方やお金の扱い方、
妊娠や出産への向き合い方、
人間関係、
そしてこれからの人生をどう描いていくかということまで、ほとんどすべてに同じ基準を持ち込むようになっています。
それは難しい理屈ではなく、とてもシンプルな問いの積み重ねです。
それは、今の自分にとって無理がないか。
選んだ瞬間だけでなく、その先でも、自分の感覚がきちんと生きていられるか。
そして、短期的な魅力ではなく、長く一緒にいられる関係や選択なのかどうか。
派手さや即効性よりも、続けた先に「ちゃんとそこにいる自分」が想像できるかどうか。
そんな視点が、意識して取り入れたというよりも、自然と立ち上がってくるようになりました。
選り好みではなく、成熟した選別
この変化を、「選り好み」と呼ぶのは、少し違う気がしています。
むしろこれは、たくさん見て、たくさん試してきたからこそ辿り着いた、成熟した選別なのだと思うのです。
外の光を追いかけていた時期があり、誰かと比べながら試行錯誤を重ねてきた時間があり、その先でようやく、内側に静かな基準が立ち上がる。
今の私は、ただその流れの中で、三つ目のフェーズに差し掛かっているだけなのだと思います。
だからもう、派手な刺激や急な変化、誰かの成功モデルが、以前ほど強く心を掴まなくなっています。
代わりに、「これは私にとって温度が合っているか」という感覚が、以前よりもはっきりと分かるようになりました。
この静かな確信は、とても目立たないけれど、きっとこれから先の選択を、確実に支えてくれるものになる。
そんな予感があります。
もう戻れない。でも、とてもいい場所にいる
今の私は、「何を手に入れるか」よりも、「何と一緒に生きていくか」を選ぶ段階に来ているのだと思います。
それは特別な決意というよりも、これまでの経験が自然と連れてきた場所、というほうが近い感覚です。
服の選び方も、
仕事との関わり方も、
お金の扱い方も、
そして人生そのものの捉え方も、
すべて同じ基準で見直すようになりました。
派手かどうか、早く結果が出るかどうかではなく、長い時間を共にしても、自分の感覚がすり減らないかどうか。
その問いが、選択の中心にあります。
ここまで来ると、たぶんもう以前の感覚には戻れません。
けれど、それを残念だとは思わないし、戻る必要もないと、今ははっきり感じています。
静かで、地味で、目立たないかもしれないけれど、足元はとても安定している。
そんな場所に、私は今、ちゃんと立っている気がします。
この感覚を信頼して生きていきたいと思えるようになったこと。
それ自体が、私にとっては、これまでになかった大きな変化であり、何よりの成長なのかもしれません。
もし、派手さや正解探しを一度脇に置いたとしたら、
今のあなたの感覚は、何と一緒に生きたいと言っていますか?
