人生のどん底が三回あった人の話
こんにちは! 朝日屋でございます!
皆様、苦労人のイメージは? 大人びた顔をしていらっしゃるとか言いますよね。
朝日屋が苦労人かどうかは別として、朝日屋は割と童顔なのです。いまでも二十代に見られます。たまに十代に見られることもあります。なぜこんなに童顔なのかな、というのはさておき、今日は朝日屋が苦難の人生を乗り越えた実体験を書いていこうかなと思います。「いまが地獄だ……」と苦労なさってる方々にも少しでも知恵を授けられるようにいくつか参考なる事を書いていこうかなと思います。
※独自で編み出した技もありますので、朝日屋はこの記事での責任を負いかねます。あくまでも参考資料として目を通してくださると幸いです。
皆様もいろんな場合の気苦労があると思います、そんな中でも、〝人生は尊く愛おしいもの〟だと言えるようになりましょう。いまどん底の皆様、これからもいまからも苦難の日々を乗り越えましょう。最後までお付き合いくださると幸いです。
皆様の光になれますように。
朝日屋の第一の試練
朝日屋の第一の試練。朝日屋は心を病んでから思春期病棟に入院しました。そこでは友達に囲まれながら楽しくやっていたものです。第一の試練は病院を退院してからなります。
クリニックの主治医から「貴方には安定剤も眠剤も必要ありません」とバッサリ切り捨てられたのは存じ上げていらっしゃるかと思います。
朝日屋は窮鼠になりました。朝日屋は安定剤なし、眠剤なしの状態で散々馬鹿なこともしました。家族には多大なる迷惑をかけ、友人のことは散々傷つけたのですから。
八百万の神々はきっと朝日屋には天罰が下したのかもしれません。
朝日屋は自分の人生を壊した人をひどく憎み、世の中に腹を立ててしまったからです。ですが、おぼろげに覚えているのは思春期病棟の友人たちのことでした。この心の痛みも、苦しみも、あの子たちに会うためならきっと乗り越えられる。朝日屋はそう信じていました。身体中を引っ掻きまわして身体も顔も傷だらけ。薬の副作用で身体はどんどん大きくなる。正に朝日屋は生き地獄でした。朝日屋は〝私は朝日屋家に生まれてしまったいらない子なんだな〟と思いました。散々、グレたこともありました。かなりひねくれたこともありました。
朝日屋はある日に主治医から肌のことを治療するために思春期病棟に入院しましょうとから言われ、好機と捉えました。入院後はあの子たちは会えませんでした。けれど、心のなかに友達は息衝いていました。あの子たちはいまもきっと元気で、朝日屋のことも心配しているな、と。
そして入院後には友達もできました。
これで、第一の試練は幕を閉じました。
朝日屋の第二の試練
※この話はフィクションでありません。かなりの実話です
朝日屋は兼ねてより十九の春に高校生なりました。朝日屋は兼ねてより、通信制高校の過年度生の生徒になりました。楽しいだろうな、それも母方の祖母のいじめに合う前までは。祖母は婿である父のことをよく思っていませんでした。父も精神疾患から無職の状態でした。「いまは高校に行く交通費もないんだ」と祖母の家を訪ねると。祖母は「高校まで歩いていきなさい」との無理難題を申し付けてきました。学校側は出席してこいと言い出し始めました。朝日屋は学校側と祖母の板挟みになり、その気苦労から精神科に入院をしました。そして入院中にある方にいまの家の経済状況を話すとその方は生活福祉課で働いていたらしく、「世帯分離したほうがいい」と言って、その方が祖父の家に直接に電話に出ました。
「お母さまと妹さんはこちらの家で生活したほうがいいです」と言いました。理由は解ります。ですが生活福祉課にいた人とはいえ、他所の人が家に口を出す権利はありません。が、そのとおりに祖母が来て、祖母は「主治医と二人で話したい」と言い出し始めました。祖母の言い分は以下のとおりです。
「お姉さんの学歴は?」
「◯◯高校です」
「……いいところのお嬢様校ではありませんか。なら、妹さんより、お姉さんのほうが心配ですね、お姉さんは父親に洗脳されています」
と言い出し始めなんだことなら分からないまま、祖母の家に泊まらせられました。
朝日屋は薬がないから口実を付けて家に帰りました。朝日屋の推測では精神科医がそんな事を言うはずはありません。すると父が迎えてくれました。姉も心配そうでした。朝日屋は「祖母からが朝日屋の精神科医の主治医がこんな事を言っていたこと」との内容は信じ難く、祖母のことだからきっと〝都合の良いように嘘をついた〟のだろうと思いました。朝日屋は「主治医がそんな事を言いましたか」とケースワーカーさんを通して主治医に尋ねました。そうすると「そんな事は言ってません。ですが、祐さんが家に帰りたくないと事は私は理解しがたい」と。その時は父方の祖父に「ごめんね」と言うと「いいんだよ」とその時は父方の祖父も味方になってくれました。
そして祖母は娘である母を家に監禁しました。祖母は母にしつこく離婚を要求してきました。そして母は帰ってきました。祖母から念書を書かせられたらしく「おじいちゃま、これは私の気持ちではありません」と釈明しました。父方の祖父が手紙を受け取りました。それからというもの祖母とは疎遠になりました。
それから月日が経って朝日屋は二十歳になり、障害年金を受給して、高校の学費を払いました。そこで、たまたま祖母と再開して「母に依存していた」と打ち明けました。
それでから高校の学費を自分の年金から払いながら学校に通い、放課後は高校の友達と遊んだりして楽しい学校生活を送りました。そしてメイクのことを教えてくれる友達もできました。楽しかったです。ですが、その学校はブラックな学校で色々先生と揉め事がありました。それから朝日屋は高三の頃から学校に行かなくなり、父もあんな学校通わなくていいというスタンスになりました。それから友達と待ち合わせしてご飯を食べたりしました。なんとか高校卒業後、朝日屋は病気からどこにも進学しませんでした。
あの呪われたマンションのことでしたし。
そして朝日屋は団地マンションに越して楽しい生活を送りました。
朝日屋の第三の試練
第三の試練はそれは〝陰性症状〟でした。問題のある友人と縁を切ってから途端に陽性症状は収まり、病状は陰性症状へと変わっていきました。
その当時のことは路のない路をたった独りで歩いているかのようでした。ですが、朝日屋には心のなかで家族や友達が〝心のなかの光〟となりました。朝日屋の心のなかには温かな光が灯されました。陰性症状はとてつもなく大変な症状でした。あの時を乗り越えたのなら、こんなものはマシだと。そして何度でも乗り越えると。たとえ、何十回も何千回も何万回であっても。そのくらい、どんな困難にも乗り越えられると……。
七年間の陰性症状は収まり、いまは朝日屋は回復期となりました。いやぁ、壮絶でした。
朝日屋もよく耐えられたものだといまは思います。
そして朝日屋のなかには心のなかにひそかに灯りが灯されました。
幾ら輪廻転生をしても又、この家族の許に産まれると。
そして苦悩を乗り越えるコツは〝人を信じよ、だが、その百倍、自分のことを信じよ〟と手塚治虫先生の言葉ものようなものが残りました。そして〝温かな思い出〟はどんな苦難も、どんな試練も乗り越えられる。そして人の心を動かす強力な力であると。人の思いこそが永遠であると。
朝日屋の拙文にも最後まで目を通してくださり、誠にありがとうございます。苦悩する人々の心を掬えたのなら幸いです。
