【エッセイ】凡を見せる天才
※若林正恭さんのnote記事を読んで感じたことを、私自身の言葉でまとめたエッセイです。記事の内容そのものには触れていません。
とある芸人さん――若林正恭さんの、有料noteを読んだ。
記事はある映画についての感想だったのだが、読みながら何度も、自分の中に立ち止まるような感覚があった。
若林さんは、芸の切実さと寂しさの関係について触れていた。
その一節を読んで、あらためて思った。
寂しさや孤独が、創造の種になることは、やはりあると。
そして印象に残ったのが、若林さんの若い頃の自分と今の自分との距離感についての言葉だった。
若い頃と違って、今なら「芸より家族を取る」とはっきり語っていた。
それは、ある種の成熟と受け取ることもできる。
けれど私は、その言葉の奥に、
“芸を選んでしまいそうな自分”を抑え込むような、切なさを感じた。
「もう何も思わない」と語る、強い強固さのようなものが引っかかった。
芸人という職業のあり方も変わってきた。
家族を優先しながら続けられる芸もあれば、
他のすべてを捨てて芸を突き詰める生き方もある。
昔は後者こそが“美しい”とされていたけれど、
今となっては、それは個人の美学によるのだろう。
家族円満で育った人の中にも、確かな美しさはある。
でも、円満ではなく孤独に育つ人にしか持ち得ない美しさも、ある。
私は前者を望んだけれど、後者を与えられ、結果としてそれを選ぶことになった。(……まあ、私は芸人じゃないけど。)
若林さんは、20年後、どちらにいるだろう。それに興味を持った。
もちろん、どんな形でも若林さんを応援したい。
また、もう周りにわかりやすい具体的な目標がないとも、彼は語っていた。
それは40代から、多くの社会人が感じる感覚とどこか似ている。
山を登り切った先で、自分の姿がはっきりと見えてしまったときの、あの静かな時間。
芸人でも会社員でも、その風景は変わらないのかもしれない。
若林さんは、不思議な人だ。
知らなければ“カリスマ”に見える。
実際、若手芸人で彼に憧れる人が多いのも知っている。
でもこうしてnoteの記事にふれると、
「ああ、”凡人”なんだな」と思う。
それは決して“がっかり”ではなく、むしろ安心に近い感覚であった。
改めて、面白い人だなと感じた。
多くの芸人は“芸人である自分”を保つために、“凡の自分”を見せない。
そう――あの映画に出てきた“先代の国宝”のように(※映画は見ていないが、若林さんのエッセイを通して想像した)。
そのストレスが蓄積され、やがて裏の顔となって表に漏れ出すこともある。
週刊誌に暴かれ、転落する人たちも少なくない。
それでも、“凡”を見せられる若林さんは、やっぱり怪物なんだと思う。
魅力に溢れた人だ。
そしてきっと、そんな彼を惚れ込んで見守っている人たちが、まわりにいるのだろうな……と想像する。
そんなことを思いながらも、やっぱり私は──
やっぱりオードリーの漫才は、ネタがわかっていても、何度観ても面白い。
M-1の敗者復活から這い上がってきたときのあのネタは、年に一度はサブスクで観返さないと気が済まない。
(ちなみに、柳沢慎吾の「警視庁24時」ネタも同じくらいリピートしている。)
……待てよ?
こんな“凡の姿”を、有料noteで堂々と見せている若林さん。
やっぱり天才のやることは、どこか違う。
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