祈りの声 飢えの影
むかしむかし、山あいの小さき村に、つくよという少女がいた。
その年、空は雲を呼ばず、雨は土を忘れ、作物は育たず、飢えが村を襲った。
村人は山の実を摘み、川の魚を狩り、とうとう狸も狐も狩り尽くした。
それでも飢えは止まず、人の目から光が消えていったそうな。
やがて、村の長は言うた。
「これは神の怒り。祀りをせねば、村は滅ぶ」
それは、古より語り継がれる祈りの儀――
“ひとつ命を差し出し、皆の命を繋ぐ”という、祀りのこと。
選ばれたのは、つくよの幼馴染――あさぎ。
まだ十と六の春を迎えたばかりの娘だった。
その夜、焚かれた火の向こうで、あさぎは静かに祈り、
その身を、山の祠へと捧げられた。
翌日より、村人たちは、つくよを避けるようになった。
言葉を交わさず、目も合わさず、道を譲り、戸を閉ざした。
彼女のもとに届くのは、干からびた穂先や、割れた器の残りばかり。
つくよは思った――
(あの夜、あの祀りのあとから……わらわは、忌みとされておるのか)
時折、村人の口から漏れる声があった。
「名主様も何故……」「赦してくれるじゃろか」
けれど、その意味を、つくよは問うことができなかった。
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ある日、ひとつの記憶が、つくよの胸に浮かんだ。
まだ雨の降っていた頃、春先の川で――
つくよとあさぎは、裸足になって、魚を追いかけていた。
「そっち追って! はやく、つくよ!」
「わ、わらわ泳ぎは得意じゃないのにっ!」
足を滑らせて、つくよが川にばしゃりと落ちた。
笑いながら助けに来たあさぎも、一緒に転げ落ちて、
二人して、くすくすと水の中で笑い転げた。
「びしょ濡れじゃ……」
「そなたが先に転んだのじゃろう!」
見上げた空には、薄く雲が流れていた。
あさぎは、濡れた頬を拭いながら、ぽつりと言った。
「つくよ。……もし、わたしが死んだら、どうする?」
「……え?」
「あはは、うそじゃ」
あさぎは、ふざけたように笑った。
けれど、その目だけが、ふざけてなどいなかった。
そのまま言葉は流れ、川も流れ、時も過ぎた。
だが、つくよの心には、その目だけが残っていた。
---
月日が過ぎ、ある晩より――
つくよの家に、風と共に声が届くようになった。
「怨めしい……くやしい……」
夢か現か、その声は幼き日のあさぎに似ていた。
胸の奥がざわめいた。
つくよは耳を塞いだ。けれど、夜が来るたび声は来た。
「……墓標を……墓標を……」
墓標にいけば何がわかるというのじゃ。
妾は知るべきなのか……知らぬがよいこともある……
じゃが、妾は……
やがて、つくよは決意する。
あさぎの死の真実を知るため、村の古き書を探り、祠をめぐり、
生贄の碑を訪ね歩いた。
そして、ある祠の裏手、苔むした石に刻まれた名を見つけた。
「奉納 つくよ」
つくよは息を呑んだ。
(……わらわが、祀られるはずだった……?)
その瞬間、夜ごとに届いていた声が胸の内に溶けた。
あさぎの微笑が、血の色で浮かんだ気がした。
「そなたの命の価値は、重きものぞ。そう申したであろう……」
けれど、つくよは叫んだ。すべてを理解した。
あさぎは、つくよとして死んだのだ。
「違う! 違うのじゃ……!」
喉が裂けるほどに泣いた。
あさぎの優しさが、つくよを生かし、
村人の沈黙が、彼女を死よりも深く追い詰めた。
あの目が思い出される――
川辺で、何かを予感していたような、あのまなざし。
---
――そして、翌朝。
つくよの亡骸が、碑の前に倒れていた。
手には刃を握り、血は碑をぬらし、首をほとんど斬り落としていた。
村人たちはその死を見つけても、泣かなかった。
ただ、崖に運び、ぽとりと落とした。
「忌み子であったか……」
誰も、それ以上は言わなんだ。
そして――
飢饉は、終わることもなく、ただ、続いた。
村の大半が飢饉によって餓死した頃。
あさぎとつくよが死んだ山の奥。
キツネの嬉しそうな「コーン」という鳴き声が聞こえておったそうな。
あれは、飢饉の始め、村人に狩られたキツネの子だとも、
あさぎとつくよの生まれ変わりだとも、
人は語り継いだと言う。
今もなお、つくよが命を落とした、あの山の奥。崖の上に、そっけない楕円形の贄碑が、ひっそりと建てられておる。
その足元――崖の下には、いつからか、白い彼岸花が群れて咲くようになったという。
遠い遠い、昔の話。今はどこにあるやも知れぬ山の物語じゃ。
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