見えないのに、たしかに "ある" もの
小さい頃、いつも不思議だったことがあるんです。
「なんで、自分の顔だけは見えないんだろう?」って。
手も足も、他の人の顔も見えるのに。自分のだけは、鏡がないと確認できない。見えて、ギリ鼻。それって、他の人も同じなの?
こう思ったこと、ありません?
もしかすると、ほとんどの人は「当たり前のこと」として通り過ぎるのかもしれません。でも、わたしの中ではこの疑問が消えませんでした。
「この手を見てるわたしは、本当にこの手の持ち主なのか?」
「じゃあ自分って、どこにいるんだろう?」
子どもなりに、そんなことを考えていたんです。
それから…
「死んだ時、からだは残っているのに、持ち主である存在は一体どこに行ってしまうんだろう」って。
そのどこかに行った存在を、人は "いのち" と呼んでいて。
物理的には、からだの機能が止まることなんだろうけど、それと "いのち" がなくなることは、本当にイコール?(「死んだら体重が軽くなる」なんて噂もあるけど、あれはさておき…)
大人になって、いろいろな知識を身につけた今でさえ、この疑問は全然解決しません。"いのち" が生まれたり、なくなったりすることって、科学で説明しづらくないですか?あれは、なんなんですか?
突然発生したり、なくなったりするものって、科学の世界にはないと思うんです。形を変えたり、エネルギーが移動したりするぐらいで。
もしかして、"いのち" だけ別の場所へ行くのかな?わたし達が知らないどこかに。じゃあ、それってどこ?宇宙?
科学で説明ができないものに、人間は名前をつけます。"縁" や "いのち" もそのひとつかもしれません。目に見えないのに、働いている概念というか。数学で言うところの "虚数" みたいなやつ。見えないものに名前をつけたり、理由づけすることで、よくわからないものの穴を埋めて、ようやく世界がうまいこと回っているのかも。
科学って、人間から見えてる世界を、人間が納得できる形に整えたものなのかもしれません。でも、そこから一歩はみ出した「納得できないけど、確かに何かある」世界だって存在すると思うんです。
"虫の知らせ" みたいなものとか、初対面なのに、どこかで会ったことがある気がする現象とか…考えるよりも先に、五感が世界を認知している時がある気がするんです。
わたしたちが見てるものは、なんなんでしょうね。"からだ" と "いのち" が別物だとすると、"いのち" は一体どこにあるんでしょう。
「それ、哲学でいうと、こういうことだよ!」というものが、あるのかもしれないけど。少なくとも、わたしにとって、それはまだ見たことがない世界なんです。
見えないけれど、たしかに繋がってる。そういうものがこの世界にあるということにロマンを感じるのです。だから、わたしが今いるこの世界のことが、ちょっと気に入っています。
ことばとさん主催の #モノカキングダム2025 参加記事です!今年のテーマは「あい」。書く部メンバーじゃなくても参加できますので、チャレンジしたい方はぜひ、一緒に楽しみましょう🙌
わたしが忍ばせた、ふたつの「あい」、わかりましたか?(あとで振り返ったら3つあるかもしれない)
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