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あの式が美しいのは私の命が真理を知っていたから

高校二年生の時、私は数学という学問の沼にどっぷりと浸かった。
それまで赤点ギリギリのところで怠惰に推移していた成績だったのにも関わらず、気がついたら数学だけは学年10位にくい込んでいた。クラス担任は国語教師だったため「お前国語もやれよ」とボヤかれていた。
あまりにも急な変化に自分自身が戸惑うほどであった。自分の中にズドンと落ちてきた数学の楽しさに、それを教えてくれた数学教師に恋慕に似た憧れを抱くほどには混乱していた。まだ自分の中に敬愛という感情が育ってなかったのだと思う。当時彼は還暦間近だったし急に数学に取り憑かれたようになった女子生徒によくわからん視線を向けられて本当に迷惑だったはずだ。深く反省している。N先生ごめんなさい。

  永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』という本を読んだ。本書の中で綴られているのは哲学対話の場で著者と参加者の間で交わされる、戸惑っていても正直で、形になっていなくても変わってもいい言葉たち。ページをめくりながら、気がつけば私は冒頭の自分の少し気恥ずかしい過去に思いを馳せていた。

 高校生の時に沼に落ちてから、20年近く私は数学を愛している。数学が好きなあまり学習塾で講師の仕事を選んだ。就活中、学習塾の人事部の方との個別の面接でなぜ数学が好きなのかと問われた時、私は「あるべき式があるべきところに収まっていると美しく感じて仕方ない」と答えていた。あまりに夢中で数学への愛を語っていたため面接官は爆笑していたのを覚えている。解き方や証明には美しさがある。これは数学学徒なら馴染みのある感覚だと思う。
では美しさを感じるのは何故なのか。「あるべきところ」とはなんなのだろう。

人々と問いに取り組み、考える。哲学はこうやって、わたしたちの生と共にありつづけてきた。借り物の問いではない、わたしの問い。そんな問いをもとに、世界に根ざしながら世界を見つめて考えることを、わたしは手のひらサイズの哲学と呼ぶ。なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学だ。

水中の哲学者たち まえがきより

数学が私にとってなぜ美しさを感じるものなのか。この問いが私の手のひらにのっている問いなのだろう。
この問いはあまりにも長年私の中にあり続けて、何度も眺めて取り出しては答えを定められずにいた。「そんなものなのだろう」と諦めていた。

「もう少しでわかりそう」という感覚は、「もう少しで思い出せそう」という感覚に似てい る。……(中略)……探究とは、想起することに似ているのだ。

水中の哲学者たち より

この引用の文章を読んだ時に私は天啓を受けたような気持ちになった。

わかるということは思い出すことなのだと。

なぜ式が「あるべきところに収まっている」のかがわかるのか。それは我々が世界の根本に流れる数学というルールの上で生きているから。そのことを魂が知っているからだと思った。学んで知っているとは一線を画す、もっと感覚に近いもの。

誰もがきっと、理由はないけれど「絶対にこうだ」と肌で知っている世界のルールを魂のどこかに隠し持っている。私にとってそれがたまたま「数学」だっただけだ。誰かにとってはそれがメロディかもしれないし、誰かにとっては料理の味付けの塩梅や、季節が移り変わる瞬間の匂いなのだろう。

意味や効率ばかりが求められる日常の中で、私たちは「思い出す感覚」を忘れてしまいがちだ。正直で、形になっていなくても、変わってもいい言葉たち。本書の中で交わされる哲学対話のように、自分の内側にある言葉にならない感覚をもっと考え続けてもいいはずだ。

あなたの手のひらの上には今、どんな問いがのっているだろうか。
形にならない戸惑いを抱えたまま、私たちは世界の根本にある何かを思い出す旅の途中にいる。



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