映画館とホイコーロー
「じゃあ、ホイコーロー定食、ふたつ」
少し弾んだ父の声に、初めて入った店への緊張感がやわらぐ。映画の余韻と空腹を抱え、父に着いていくと、「えぞ松」という中華とは思えない名前の店に入った。“町中華”らしい店内に圧倒され、年季の入った油っぽい床に足が取られ、少しドキリとしたのだ。
大皿に盛った熱々のご飯の上に、被せるようにホイコーローが載っていた。厚めの豚肉に、野菜は大きめに切られたキャベツのみ。湯気だけではない。食欲を刺激する匂いが、皿全体から立ちのぼっていた。
「名物 ホイコーロー定食」
貼り紙は、かなり色褪せていた。ずっと昔から作られ、たくさんの人が食べてきたのだろう。油と醤油の混ざった濃い味は、想像通り美味しかった。
父がその映画館を見つけたのは、だいぶ前のことだった。飯田橋駅の近く、ひとつしかないスクリーンで、新旧も国籍もさまざまな2つの作品を交互に上映する「名画座」だった。映画好きが集まる小さな映画館は、2週間ごとに作品を代えていく。
週末、その映画館で父と一緒に映画を観ることが増えた。朝から2本続けて観たあと、神楽坂の麓の店で、ホイコーロー定食を食べて帰る。
何度かそれを繰り返していたが、僕が結婚して家を離れた。僕は行かなくなったけれど、父はその名画座に10年以上も通った。
途中、古びた施設が更新され、快適な場所になったと喜んでいた。しかし、世界中が混乱したあの感染症によって、その名画座の幕は、文字通り閉ざされてしまった。
ホイコーロー定食を出していたお店も、いつのまにかなくなっている。
いまでも、映画を観ていると、不意にあのホイコーロー定食の味が蘇る。熱々のご飯を冷ましながら、映画の感想を喋っていたのか、やっぱり美味いなと言っていたのか、覚えていない。
いつも父が嬉しそうに注文していた理由が、映画やホイコーロー定食だけでないことは、親になって少しだけ分かった。
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