『考働』を読んで
「仕事」=「金銭獲得労働」というのが、自分自身のこれまでの認識であり、世の中の認識であろう。
(略)
これまでの価値観をとっぱらい、世間の認識も無視した場合の私にとっての「仕事」って何なのか?
私は「仕事=誰かの役に立つこと」であってほしい
本当は、皆誰かの役に立って喜んでもらいたいと思っているし、夢中になれる何かに身を尽くし、魂を震わせながら生きていたいはずだ。
社会人になって3年目の春
この2年間、仕事についてたくさんのことを考えてきた
noteでもアウトプットしてきた
働くことについて考え方が変化したのはじぶんでも感じている
そして考え続けることは大事なことだと思っている
文学フリマで『考働』という本に出会った。
【「働く」を考え、行動する。】
その日初めて出会ったけれど「はじめに」を読んで共感で引き込まれた
文学フリマの翌日から2日間、私は援農に出かけた
援農というのは農家さんのお手伝いに行くことで、私はひょんなことから知り合いになった畑にときどきお邪魔している
今回の援農は初めての泊まりがけ2日間。この濃密な時間の中でじぶんにとっての「働く」を考えることができたので書き表してみる。
ゴールデンウィーク、久しぶりに畑に訪れるとその日は10人もの人が援農に来ていた
援農者同士は初対面
はじめはぎこちなく挨拶をしながらも、農作業を手伝いながらお話をしてどんどん打ち解けていく(初対面だからこそ気軽に話せることもあったり、畑という場所がそうさせているのかもしれない)
ここに集まる人は、みんなすき好んでここに来ていた。
農業に興味があるという人もいれば、自然に触れたいという理由や久しぶりに畑に遊びに行こうという感覚で行く人(私)もいる。
そこで本来は「雑務」ともなりかねない草むしりを楽しくわいわいとやりながら時を過ごすのだ
対価など求めていない、その時間を過ごせることをありがたく思っている
そこに居させてもらうだけで大満足だったりするのだけど、最後には農家さんから「お手伝いありがとう」と採れたての野菜をお土産にもらった
さらに私は今回ホームステイでもお世話になった
農家さんが気前よく迎え入れてくれ、初めての泊まりがけの援農
畑でとれた野菜を使ったごはんをいただき、寝る場所も用意していただき、次の日は畑でゆっくりと癒しの時間を過ごした
この2日間の経験に対し、私はどうにかして恩を返したいと思った
この体験に私は他では得られない価値を感じていて、何かしらの形で伝えたい
普通なら宿泊代金を支払うところだけどお金はいらないよと言ってくれている
ぶつぶつ交換で、何かモノがあれば受け取ってくれるかもしれないが、私は何も持ち合わせておらず、今時点では何も返せていない状態である(今度その農家さんの野菜を買おうと思っている)
2日目が終わる頃、畑の中で横になってゆっくりと自然の中に身を置いていた時、ふと思った。
この2日間で起きていたことが、労働と金銭授受の原点なのではないか
やってみたい・興味がある・手伝いたい
そういった気持ちがあって行動する
その行動に感謝の気持ちを伝えたい、何かしらの恩をお返ししたい!という気持ちが湧いてきて、その表現のために対価を渡す
対価は本来ぶつぶつ交換でもいいところだけれど、この社会の中で等しい価値を持つ金銭を手渡すことによって対価が一般化され汎用的に使うことができる
やってみたい・興味がある・手伝いたいという気持ちから始まる労働は、組織が体系化されていく中で、効率や組織の都合を大事にする必要が出てきて個人の気持ちが尊重されなくなっていく
さらに市場では金銭が価値を持っており、この社会では高価なものの所有が価値あることになっている。
その中で生きる人々は、「やってみたい・興味がある・手伝いたい」という労働に対する気持ちよりも「よくみられたい・いいものを身につけたい・いい暮らしをしたい」という欲求が上回っていく。労働も市場化し、人々が労働力という名の歯車と化す
市場では、それを作った人(提供者・労働者)に対して「私はこれが欲しい!作ってくれてありがとう」という気持ちから対価を支払うところが本来の形だろうと思う。たとえばスーパーで食品を買う時も、ここに陳列されるまでに野菜を育ててくれたり物を運んでくれたりの人の手に感謝を伝えるのがお金を支払うということな気がする。
だけれども実際にはモノが「オレは⚫︎円の代物だぜ、買えるのか?手が届くのか?」みたいな感じで訴えかけてきていて、消費者として手が届くのかをジャッジしている。高価なものを所有することが社会の中で印となり、「ものに対して感謝するためのお金」ではなく「お金の所有を示すため」に、お金を身につけやすい物に換えている状態だろう。
そしてそういった歪みは就職活動という仕組みの中にも現れていると思う。
本来は「やってみたい・興味がある・手伝いたい」という気持ちから始まるはずのもの。それが、より良い所有や暮らしを目指すこの社会の仕組みの中で「どの会社を選ぶのか」みたいな見方になっている気がする。「何を手伝いたいか・誰の役に立ちたいか・どんな営みに参加したいか」ということは面接の質問に含まれてはいるけれど、実際にはそれよりも「どの企業が"強い"か・年収はいくらか・市場価値があるか」みたいなところが判断軸になってしまっているように思う
そうやって回っている会社だから、「誰かのために何かをしたい」というよりも「お金を稼ぐためにどういう選択をするのか」というところが重視されてしまい、中で歯車となってしまう個々人がだんだんと追い詰められていくのだと思う
そして、会社組織の動きが本来の人間の営みからかけ離れていることに気づき始めた人たちが、労働に対して違和感を感じるんじゃないだろうか(「会社を辞めて自由に過ごしたら本来の自分を取り戻せた」みたいな人がいるのはそういうことなのかなと思っている)
私にとっての「働く」とは、
「やってみたい・興味がある・手伝いたい」そういった気持ちに押されて行動すること
その行動に感謝の気持ちを伝えたい、何かしらの恩をお返ししたい!という気持ちが湧いてきて、それを相手に伝えるための手段のひとつが対価
じぶんがやってみたいことをいろいろとやってみて、それに誰かが価値を感じてくれたら対価をもらえる
恩を返したい・感謝を伝えたいという気持ちをどうにかして対価を使いながらも表す
大昔のムラの様子を想像すると結構これがしっくりとくるからきっと間違い無いと信じている
社会の発展で労働や消費はカタチを変えているけれど、
昔っぽさのあるこういった営みが、私が穏やかにじぶんで居ることのできることだったりする
