2048年のリマインダー #2
あらすじ
「じゃあ今、リマインダーセットしようや」
30歳を目前に控え、将来への不安と安定の間で揺れていた藤崎七恵。5年同棲した恋人を日本に残し、退職を機に訪れた東南アジア・ラオス。
そこで出会ったのは、どこまでも自由で、等身大の自分を生きる吉川桂吾だった。彼と過ごす飾らない時間が、平穏な日常を壊したくないと固まっていた七恵の心を、優しく解きほぐしていく。
灼熱の大地で加速する、許されない恋。
20年後のリマインダーに託した、二人の約束の真意とは。
30歳、人生の岐路に立つ女性の再生と決断を等身大に描く、旅×恋愛小説。
前編はこちらをご覧ください。
長期休暇があったら、行ってみたい場所があった。ラオスのバンビエン。バックパッカーの聖地と呼ばれるその街は、奇岩がそびえ立つ雄大な自然の側にある小さな街だ。
YouTubeを見ながら怠惰に過ごしていたある日の休日、たまたま流れてきたバンビエンの映像に七恵は釘付けになった。
空と大地がどこまでも広がる雄大な世界を爽快にバイクで走るその光景は、七恵の鬱々とした状況とは真逆の解放感に満ちた世界に見えた。
次のあてもないまま退職届を出すことは、あまりに無謀で、レールから自ら外れてしまったという劣等感も感じた。けれど同時に、ようやく解放されたという深い安堵感もある。
そのどちらの感情もうまく消化できないまま、目の前には、人生で初めての「次に何も決まっていない時間」が残されていた。
今を逃したら、次はいつこんな旅ができるか分からない。そう背中を押されるようにして、2週間のラオス一人旅を計画した。
美味しいごはんや美しい景色を誰かと共有することも幸せだが、誰にも気を遣うことなく、自分のペースで動ける一人旅のスタイルも気に入っていた。
翔平とは年に2回くらいは休みを合わせて旅行したが、子育てをし始めた友人とは旅行に行く機会も減り、それ以外のほとんどは、仕事の合間に2.3日のまとまった休みがあれば、京都や離島など一人旅をした。
計画的に旅行に行くこともあれば、「来週福岡に行こう」と急に思い立ち、出かけることもあった。
そんな七恵の行動に慣れていた翔平は、2週間の一人旅も快く送り出してくれた。
この先のことを何も決めないまま、未知の国への一人旅を計画することは、ここ数年で味わったことのない興奮と希望をくれた。
旅のはじまり
出発の日は雨だった。3月のまだ冷たい朝の雨の中、最後の引き継ぎを無事に終え、名実ともに無職となった七恵は、成田からラオスのヴィエンチャンへ向け旅立った。
フライトは順調で、ハノイでの乗り換えを経て予定通り現地時間18時にラオスの首都ヴィエンチャンに到着した。
ヴィエンチャンの気温は夕暮れ時とはいえ30℃を超えており、空港ロビーから外に出ると、湿気を帯びた生ぬるい風と東南アジア特有の土っぽい香りに全身が包まれる。日本とは全く違うどこまでも濃厚な熱気に、少しの緊張と、それ以上の解放感がじわじわと湧いてくる。
ここ首都ヴィエンチャンは拍子抜けするほどひっそりしていて、空港周辺に建物はなく、暮れゆくロータリーに客引きにわずかに残る数台のタクシーと、やたらと背の高い街灯があるのみだった。当たり前だが、街までのタクシーを英語で交渉する状況に、自分が本当に日本での日常から遠く離れた場所にいるのだということを実感した。
よく冷えた車内で、少しざらつくシートにもたれ、車窓を眺めた。街に近づくにつれ、路上屋台で夜ごはんを食べる人々、バイクを3人乗りする家族、小規模だがホテルや会社らしい建物を通り過ぎる。
ホテルは街の中心部にあり、ナイトマーケットや飲食店街から徒歩5分ほどの距離だった。
10キロのザックを肩から降ろし、何の注意もいらないホテルの部屋で一人きりになった時には、旅行一日目の緊張も下ろせた。
部屋のエアコンで十分に涼んだあとは街に繰り出した。
ホテル前の大きな交差点に立ったものの、歩行者信号は一向に青になる気配がない。現地の人が赤の点滅で平然と渡っていくのを見よう見まねで習い、急ぎ足で渡った。
大通りは人通りがあったが、路地に入れば道は暗く、一気に静まり返った。右も左も分からない初日の夜。誰の目も届かない暗がりに若干の心細さを覚え、辺りを警戒しながら、明かりを求めて飲食店街へ急いだ。
飲食店街に近づくにつれて人通りが増え、ようやく自分が安全な場所にたどり着いたのだと実感した七恵は、観光客向け過ぎず、かといってローカルすぎないお店に目星をつけて入った。
そのレストランは外観よりも広く、座席のほとんどがプルメリアが生い茂る中庭にあり、数組のカップルや家族がそれぞれの食事を楽しんでいた。ポトポトとプルメリアの花びらがテーブルや床に落ちてくる。
南国特有の甘く華やかな香りが立ちこめる中、注文したラープと、竹で編まれた小さな器に入ったもち米が運ばれてきた。
豚ひき肉をスパイスで炒めたラープを口に運ぶ。想像していたよりも容赦なくスパイシーで、ライムの強い酸味と、名前も知らないハーブの清涼感が一気に鼻を抜けた。旨みでじっくり味わうというよりは、素材の輪郭がダイレクトに攻めてくるような野生的な味だ。
その力強い辛さを、よく冷えたビアラオで一気に流し込む。すっきりとした喉越しの奥に麦のコクが広がり、辛さでひりひりした口内を洗い流していくようだった。
少し固まりになったもち米もお世辞にも洗練された味とは言えないけれど、無事にここまで辿り着いて、現地の味をこうして一人で楽しめている。ただそれだけで、なんだか十分に満たされた気持ちになれた。
その日は川沿いの大きなナイトマーケットを横目に見るくらいに留め、ホテルに帰った。
熱々のシャワーを浴びて汗を流し、冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールを開ける。冷えた缶を片手に、窓の外に広がる見知らぬ街をぼんやりと見つめていると、昨日までの日本の日常が、急にどこか遠い世界の出来事のように思えてきた。
次の仕事も決まっていないし、これからどうなるかも分からない。けれど、不思議と後悔はなかった。夜風に揺れるカーテンを眺めながら、七恵は「ここに来てよかったのかもしれない」と、小さな安堵とともにラオスでの最初の夜を静かに閉じた。
その日の朝は眩しい陽射しとともに訪れた。
幹線道路沿いのホテルの窓から外を覗くと、向かいの商店から出てきた犬が、まだ車通りのまばらな道路の真ん中で糞をしていた。その落ち着いた堂々たる様に七恵はくすりと笑ってしまう。
顔を洗い、煙草を吸いにホテルの外に出た。まだ熱を帯びる前の、どこかひんやりとした朝の空気の中に、紫煙が溶けていく。
喫煙者の母の元で育ったせいか、成人するころにはすっかり立派な喫煙者になっていた。周囲に煙草を吸うことを伝えると「意外だね」と言われることが多かった。どうやら世間のイメージとは違うらしい。友人たちは二十代後半を迎えると次々と禁煙していったが、七恵には一度もそんな気は起きなかった。朝起きたとき、食事の後、眠りにつく前。日常の生活動作に結びつくこの習慣を、いまさら手放すことなんて想像すらできなかった。
朝はいくらか涼しく、タイやベトナムほど交通量のない街中では、澄んだ空気が感じられる。ホテルの前の交差点の対岸には寺院があり、赤と金に装飾された柱や屋根が、青々と茂る木々の間から覗くことができる。陽射しの中で見るそれは、思った以上に煌びやかで立派なものだった。信号に合わせ数台のバイクが目の前を通るが、クラクションが鳴り響くこともなく、道路も混み合うことがなく流れ続けていた。すぐ向かいの境内から、寺院の鐘の音が朝の空気に溶けるように響いてくる。
身支度を済ませ、ホテルを出る頃には日は高くなっており、歩いているとじんわり汗が滲んだ。
この日はあてもなく街を散策しようと思っていた。世界一何もない首都と言われるラオスのヴィエンチャンには、パトゥーサイというパリの凱旋門を模した巨大なモニュメント以外に目立った観光地はなかった。
しかし七恵は退屈しなかった。東南アジアの喧騒はそこにはなく、街は静まりかえっていた。
トゥクトゥクの運転手は車内で居眠りをしており、脇を通り過ぎても客引きをされない経験は初めてであった。
ただ、一歩路地に入れば、人々の生活はそこにあり、道端では子供がゲームで遊んでいて、扉が開け放たれた美容院では、シャンプーをしてもらいながら携帯で動画を見ている女性がいた。
まるで自分が透明人間になって、街を歩いているような気がした。
熱い日差しの中、汗で背中に服が張り付くが、それでも心は軽やかだった。手持ちのコンパクトデジタルカメラで、路地や商店、南国の木々や花、寺院などを撮っていると、言いようのない充足感で自然と笑みがこぼれる。
街中を歩けばそこら中に寺院があった。思えば日本もそうかもしれない。その日はちょうど日曜で、それぞれの寺院ではオレンジの袈裟を纏った僧侶からお経が読まれ、地元の人々が白い衣装に身を包み信心深く手を合わせている。
七恵も通りすがった一つの寺院のお堂に入り、後方から見学した。
寺院の中は色鮮やかな飾り物や供物があり、天井から頭上まで垂れ下がった紙の飾りが、さらさらとお堂を抜ける風で揺れていた。
目を閉じ、背筋を伸ばし耳を傾ける。
理解できない言語でも、経のトーンというものは世界共通で、厳かで清潔な響きがある。しばらく見学させてもらい、寺を後にした。
昼間の日差しは肌に突き刺さるようだった。
日本とは20度も違う気温に体がすぐ順応できるはずもなく、歩き回るうちに熱気で体力がじりじりと削り取られていく。
まだ日は高かったが、無理をせずホテルに戻って火照った体を休めることにした。
夕方、翌日のバンビエンへの移動に備えて、受付で朝8時発のバスを予約した。ホテルのスタッフは慣れた様子でスムーズにチケットを手配してくれ、その手際の良さにホッとする。
明日、いよいよ憧れの地に行けるのだと思うと、胸の奥からじわじわと高揚感が湧いてきた。
しかしこの時の私には、まだ想像もできなかった。まさかその日の夜、見知らぬ誰かと並んでこの街を歩いているなんて。
#3へ続く
