〚お客をえらぶギター奏者の物語(仮題)〛通し番号130. 《歩み出す》(54)

途中で 民宿に寄り、画家を降ろす。
「今日は ありがとうございました」
「うん、また 明日な」
ドアを開けた運転手にも きちんと礼を言い、画家は 車が角を曲がって見えなくなるまで 手を振ってくれていた。
しばらくの 快い沈黙の後、支配人が ポツリと言う。
「潤ちゃん、いいだろう?」
「…はい」
「…こら、泣くな」

屋敷に帰って 風呂を使わせてもらい、
部屋に戻って ベッドに横たわると なぜだか涙があふれて仕方なかった。
ふと思い立って 訪れただけの町で、初めて会ったひと達から こんなに良くしてもらい、
また 彼の惚れ込んだ絵の作者は、彼女の絵から受けた 印象通りのひとだとわかった。

長年 勤めた会社を 止むに止まれぬ事情があったとは言え、中途で去ったこと、
たったひとりの肉親である 母と別れたこと、
どちらも 納得していたつもりだったが、彼自身が思っていたよりも 負うた心の傷は深かったらしい。
心細さと、新しい出会いへの感謝、
そして ひとりの同世代の女性としての 画家への憧れ…
眠りに落ちるまで、彼は 熱い涙の 枕へこぼれるにまかせたのだった。

(この物語は おとぎ話です。登場する人びと、場所、出来ごと等 全て 架空の存在であり、モデルはありません。こんな人びとがいたら良いな、と願って書いているところはあります。)

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