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『だぁれかさんとアソぼ?』 ──Jホラー三部作完結編、その設計図を読み解く



はじめに──「お手本」という言葉の重さ

『ミンナのウタ』『あのコはだぁれ?』に続く三部作の完結編、『だぁれかさんとアソぼ?』を観終えたとき、まず浮かんだ言葉は「お手本」だった。これは決して消極的な評価ではない。むしろ、これほどまでに教科書的にJホラーの文法を踏襲し、なおかつ映画史上の重要作からの引用を大胆に配合してみせた作品に、私は素直な敬意を抱いている。

ただし「お手本」であるということは、同時にその設計図が透けて見えてしまうということでもある。本稿では、この作品がどのような映画的DNAを継承しているのかを構造的に解剖しながら、その一方で興行的制約や脚本上のノイズがどこに残ってしまったのかを、愛情を込めつつも冷静に検証していきたい。

第一章:三本の名作から抽出された「ハイブリッド構造」

本作の骨格を分析すると、驚くほど明確に三つの映画史的名作の要素が抽出され、丁寧に配合されていることがわかる。単なるオマージュの寄せ集めではなく、それぞれの作品が担う機能をきちんと理解した上での「移植」がなされている点に、まず注目したい。

『サイコ』が担う「歪んだ存在の深掘り」

一つ目の柱は、ヒッチコックの『サイコ』、そしてその後の続編群(『サイコ2』『サイコ3』)が確立した構造だ。すなわち、一人の歪んだ人物の内面――トラウマの発生源、狂気に至るまでの心理的階段、そしてその存在が周囲に与え続ける影響――を、シリーズを通して段階的に深掘りしていくという手法である。

『サイコ』のノーマン・ベイツが単発の恐怖装置ではなく、続編を経るごとに悲劇的な人間性を帯びていったのと同様に、本作における「さな」という存在も、三部作を通じてその輪郭が丁寧に描き込まれていく。単に「怖いもの」として提示されるのではなく、彼女がなぜそうなってしまったのかという因果の物語こそが、シリーズ全体を貫く縦軸として機能しているのだ。この点において、本作は単発の怪奇譚ではなく、ホラー映画における「人物研究(キャラクタースタディ)」としての矜持を保っている。

『リング』『らせん』が担う「感染・拡散のロジック」

二つ目の柱は、日本ホラーの金字塔である『リング』『らせん』が確立した、呪いの感染システムだ。カセットテープというアナログメディアを媒介に、恐怖が人から人へと「感染」し「拡散」していくという構造は、Jホラーが世界に誇る発明の一つと言っていい。

本作でもこのロジックは忠実に踏襲されている。「音」あるいは「テープ」という媒介物を通じて呪いが伝播していく様式は、貞子の呪いのビデオテープが持っていた恐怖の伝染性――「観てしまったら終わり」という不可逆のルール――を明確に継承したものだ。この選択は、Jホラーという文化的土壌に根を張った作品として、非常に誠実なアプローチだと感じる。

『ヘルレイザー』が担う「空間侵食」と「苦痛の美学」

三つ目の柱、そしてもっとも本作の個性を際立たせているのが、クライヴ・バーカー『ヘルレイザー』(1〜3)からの引用である。これは単なる恐怖描写の技法ではなく、美学そのものの移植だと言っていい。

『ヘルレイザー』が示した恐怖の本質は二つある。一つは、実家や密室といった「見慣れた生活空間」が徐々に異界と地続きになり、気づけば引き込まれているという空間侵食の感覚。もう一つは、死に際の苦痛の叫びを、恐ろしい不協和音ではなくむしろ「美しいメロディ」として響かせるという、苦痛と快楽が反転した倒錯的な美学である。ピンヘッドたちセノバイトが体現した「痛みは快楽と表裏一体である」という思想が、本作の恐怖描写のトーンに明確に流れ込んでいる。この「苦しみの音楽化」というアイデアは、Jホラー作品としては比較的珍しい審美的アプローチであり、本作を単なる「怖がらせるための映画」から一段上の「美学を持った恐怖映画」へと引き上げている功績は大きい。

このように、『サイコ』の人物深掘り、『リング』の感染拡散、『ヘルレイザー』の空間侵食と苦痛の美学――この三本の柱を組み合わせることで、本作は「王道Jホラーのお手本」としての強度を獲得しているのである。骨組みだけを見れば、これは非常に誠実で、映画史への理解に裏打ちされた設計だと評価できる。

第二章:キャスティングと「Jホラーの湿度」の乖離

しかし骨組みが優れていることと、その骨組みに肉付けされた「質感」が正しく機能しているかは、別の問題である。ここからは本作が抱える構造的な課題――特にキャスティングとJホラーという文化が要求する「湿度」の不整合について論じたい。

Jホラーの本質は「泥臭さ」である

そもそもJホラーというジャンルが世界的に評価された理由は、単に怖いから、という以上に、そこに漂う独特の「湿度」にあったと私は考えている。昭和から平成初期にかけての、蛍光灯の下の生活感、団地や古い一軒家に染み付いた生活の匂い、どこか泥臭く、洗練からは程遠い生々しさ。この「湿り気」こそがJホラーを他国のホラー映画と決定的に区別する要素であり、貞子の呪いも、伽椰子の恨みも、この土着的な生活感の延長線上にこそリアリティを持っていた。

三部作の一作目、二作目を振り返ると、この「湿度」を保つための防波堤が明確に機能していたことがわかる。一作目におけるマキタスポーツの、良くも悪くも生活に疲れた雰囲気。二作目における昭和的な校舎という舞台装置そのもの。これらは、たとえ主演俳優の演技が現代的であったとしても、周辺の質感によってJホラーが要求する湿度を保つ「穴埋め」として機能していたのだ。

三作目における「令和的な洗練」との齟齬

問題は完結編である本作において、この防波堤が薄くなってしまった点にある。主演の鎮西寿々歌の演技そのものに技術的な問題があるわけではない。彼女の芝居は達者であり、それ自体を批判する意図はない。だが、彼女が纏う「令和の洗練されたポップなアイドルルック」と、現代的でスマートな演技のスタイルは、本作が本質的に求めているはずの重厚で、どこかドロドロとした情念――いわば昭和的な熱量――と、決定的に噛み合っていないように見える。

具体的に言えば、本作の主人公は両親を亡くし、若くして妹の保護者としての役割を担わされているという、非常に重く、生活の切迫感を伴うはずの設定を負っている。だが、そのルックスの美しさや、保護者と被保護者という関係にありながらも年齢感が近く見えてしまう配役上のバランスによって、本来この設定が持つべき「生活の生々しさ」や「切迫したリアリティ」が希薄化してしまっているのだ。妹を守るために必死にもがく姉、というよりは、綺麗な姉と可愛い妹、という画になってしまい、そこに生活の泥臭さが宿らない。これはJホラーという、生活感を恐怖の土壌とするジャンルにおいては、決して小さな問題ではない。

『ブリング・ハー・バック』との比較が突きつけるもの

この点をより鮮明にするのが、同時期に公開された『ブリング・ハー・バック』との比較である。あの作品における兄妹の演技は、孤立無援の切迫感と、生活の生々しさをスクリーンから溢れさせていた。誰も助けてくれない状況で、それでも互いを守ろうともがく兄妹の姿には、演技の技巧を超えた「実在感」があった。

こうして並べてみると、本作のドラマの強度が、意図せずして相対的に見劣りしてしまう瞬間があることは否めない。これは俳優個人の力量の問題というより、キャスティングと作品が要求する情念のトーンとの間に生じたズレの問題であり、興行的な事情――いわゆる「タレント映画」としての制約――が背景にあることも想像に難くない。ただ、その事情を差し引いても、観客としては「湿度」の不足を感じてしまう瞬間があったことは、正直に記しておくべきだろう。

『ブリング・ハー・バック』評です。よろしければ、お読みください。

第三章:タイムラインの矛盾が生むノイズ

もう一つ、本作を批評的に見る上で避けて通れないのが、三部作を通した時系列の設計上の問題である。骨組みは優れているにもかかわらず、この部分の粗さが、せっかくの構造美に小さな傷をつけてしまっている。

短期間圧縮が生む不自然さ

一作目から三作目までの物語が、時系列としてそのまま1、2、3の順で短期間に進行するという設計は、GENERATIONSのメンバーが実名で出演していることとも関係し、物語を「現代の、極めて短い期間の出来事」として縛りつけてしまう。この縛りが、いくつかの脚本上のノイズを生んでいる。

まず、短期間のうちに三度も大惨事が発生しているにもかかわらず、事件の中心にあるはずの危険なカセットテープが、警察によって押収・処分されることなく、カジュアルに人の手を渡り歩いていく点には強い違和感がある。『リング』シリーズが呪いのビデオを「コピーして誰かに見せなければ助からない」という明確な拡散ルールと、それに伴う社会的な緊張感(メディアがそれを追う、専門家が調査する等)を丁寧に構築していたのに対し、本作にはそうした拡散システムの説得力が不足している。恐怖の媒介物が、あまりにも「都合よく」次の物語へ受け渡されてしまう印象は否めない。

さらに、この短期間の中に、主人公「さな」の家族――特に弟に関わる惨劇まで詰め込まれてしまうことで、本来であればトラウマが時間をかけて熟成し、人格を歪めていく過程として描かれるべきものが、単なる「イベントの処理」として消化されてしまっている感がある。『サイコ』シリーズが時間をかけて描いた歪みの深化とは対照的に、本作では事件が矢継ぎ早に処理され、感情の重みが積み上がる暇がないのだ。

そして、マキタスポーツが演じる探偵が、わずか1〜2年という短期間のうちに劇的に落ちぶれていく描写にも、同様の唐突さを感じる。人が転落するには、それにふさわしい時間の蓄積が必要であり、この短期間圧縮の中では、その転落が説得力を持つ前に結論だけが提示されてしまっている。

これらのノイズは、決して物語の骨格そのものを揺るがすほどの致命的な欠陥ではない。しかし、せっかく『サイコ』や『リング』が築いた「時間をかけて醸成される恐怖」という文法を踏襲しているにもかかわらず、時系列設計の都合によってその効果が半減してしまっているのは、惜しいと言わざるを得ない。

第四章:昭和の芝居が急に「滑らかになる」現象

批評的に指摘すべき課題を並べた一方で、本作には非常に興味深い、そして評価すべき現象がある。それは、現代パートの一部にぎこちなさが見られるのに対し、マキタスポーツの出演シーンや、スナックのシーンといった「昭和の空気感」を纏ったパートに入った瞬間、演技と演出の呼吸が急に滑らかになるという現象だ。

これは決して偶然ではないだろう。前述したように、Jホラーの本領はそもそも昭和から平成初期の質感の中にこそ存在する。そして、その空気感を知り尽くしたベテラン俳優の身体性が、その舞台の上で完全に噛み合った瞬間、演出のテンポも芝居のリズムも、驚くほど自然に流れ始める。これはJホラーというジャンルの「本領」と、それを体で理解している役者の「身体性」が合致したときにだけ起こる、一種の化学反応だと言える。

裏を返せば、この現象こそが、本作全体を通じて指摘してきた「湿度の不整合」という課題の正体を、もっとも明確に照らし出している。昭和的な質感のパートでは演出が滑らかに機能するという事実は、この作品の骨格そのものがいかにJホラーの正統な文法に忠実であるかを証明している一方で、その文法を令和的なルックとテンポで演じることの難しさを、同時に浮き上がらせてしまっているのだ。

総括:ノイズを抱えながらも、骨太な「お手本」である

ここまで、興行的な制約から生じたであろうキャスティングの課題、そして脚本上のタイムライン設計のノイズについて、率直に指摘してきた。だが、これらの課題を差し引いてもなお、私はこの映画を「しっかりと満足できる一作」だと評価したい。

なぜなら、本作の骨組みそのものは、『サイコ』が示した人物の深掘り、『リング』が示した感染と拡散のロジック、そして『ヘルレイザー』が示した空間侵食と苦痛の美学という、映画史に残る三つの発明を的確に理解し、それを一本のJホラーとして丁寧に統合してみせているからだ。これは決して簡単な仕事ではない。異なる時代、異なる国の映画文法を、破綻なく一つの物語に落とし込むという作業には、相当な脚本的・演出的技量が求められる。

タレント映画としての商業的制約や、シリーズ構成上の時系列の都合といった、映画本体の芸術性とは別の次元にある事情が、いくつかの綻びを生んでしまったことは事実だ。しかし、その綻びの向こう側に見える設計図――つまり「王道Jホラーとは何か」を正確に理解した上で組み立てられた骨格そのものは、間違いなく信頼できるものである。

三部作の完結編として本作を見るとき、私たちが評価すべきなのは、単体のクオリティだけではなく、この作品がJホラーという文化的資産を、映画史の他の名作群と丁寧に接続しながら、次の世代に手渡そうとしたその姿勢そのものではないだろうか。そう考えると、この「お手本」という言葉は、やはり最大級の敬意を込めて贈られるべきものだと、私は思う。

高谷さなのキャラクターが成立したので、妄想プロットを作成してみました。

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