小学校から生まれた新民謡『東金花見踊』
桜の名所、東金の賑やかさを歌った「東金花見踊」は、昭和10年に作られて以来、市民に愛されてきた新民謡だ。
昭和50年頃までは市内の小学校(城西分校、後の台方青年会館など)の学芸会などでも踊られていたという。
音源
昭和5,60年頃に録られたテープ音源があるので、先ずは聴いてもらいたい。
東金花見踊とは
驚くべきことにこの曲は作詞・作曲から振付まですべて東金尋常小学校(現 鴇嶺小学校)で作られた。
児童によって東金公園で発表(昭和10年3月15日 東京日日新聞掲載)された。
町民たちからの大好評に芸妓組合から教授を依頼され、同年5月頃には新宿の区役所で芸妓百数十名に伝授。さらに市内に広まっていった。
成立経緯
発起人である東金小学校の鈴木源輔校長によれば、当時各地で流行していた新民謡は、郷土の紹介だけでなく艶っぽい内容も多く子どもたちと一緒には歌いにくく、このことに対しての反感を持っていたという。
そこで、新たに家族全体、郷土民全体で歌える歌を作ろうと考え、職員に相談したところ皆の賛成を受け、国語部の訓導(現代の教諭に相当する)である荒木と、唱歌部の鈴木訓導を中心に東金小学校文芸部が組織され、制作に至ったという。
作詞・作曲は東金小学校文芸部とされており誰が作ったのかはこれまで不明だった。
歌詞は公募によって決められたとされているが、基本的には前述の2名の教員が制作の中心になっていたのだろう。
作曲者・作詞者について
先日私は国会図書館で、鈴木訓導の教え子の談が記された文集を発見した。それによると、本名は鈴木ひで(※表記揺れ: ヒデ、秀)。この曲が彼女の遺作だったようだ。
作曲者の名前こそ明らかにはなったが、具体的にこの『鈴木ひで』という人物がどういう人生を歩んだのかまでは分からなかった。ご存知の方がいたら情報提供をいただきたい。
一方、国語部の荒木某については、当時同校で教鞭をとり、山武郡の国語教育部長を務めていた荒木清ではないかと思われる。その後の歩みも断片的な記録があったので下記にまとめてみた。
(参考)荒木訓導もとい、荒木清氏について
荒木 清
明治34年1月29日生
大正12年4月~昭和11年3月の間、東金小学校で教鞭をとる
昭和31年3月退職(芝山町千代田中学校校長)
昭和31年10月~昭和34年7月 芝山町教育長
昭和41年 実践国語研究所に所属
時代背景
昭和10年、即ち1935年は大正デモクラシーの後の自由な雰囲気の名残もありながら、世界恐慌による経済不安のただ中、3月にドイツのヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言、7月には日本の国号が大日本帝国となり、10月にイタリアがエチオピアに侵攻開始するなど 国際関係の緊張は高まっていた。2年後には日中戦争が勃発。第二次大戦に向かって狂い始めた歯車が止められないところまで来ていた時代だった。
この曲の発起人である鈴木校長の当時の寄稿文も、自由教育と皇国教育の両方の使命感に燃えており、現代の感覚だとちぐはぐにも感じるところがあった。
子供のために作られ、戦争前夜の最後の長閑さが込められたこの曲をこれからも歌い継いでいくためにもこの曲が広く知られてほしい。
歌詞
1
ハアー 八鶴のお池にヨ
咲いた桜が 咲いた桜が はらはらゆれる
※東金良いとこ花どころ(ソレ)
ほんに良いとこ花どころ
2
ハアー たもと揃えてヨ
花に踊れば 花に踊れば からすも踊る
※くりかえし
3
ハアー 知らぬ人ともとヨ
笑顔かはして 笑顔かはして 花見の踊り
※くりかえし
4
ハアー ゆれるぼんぼりヨ
月も浮れて 月も浮れて 夜すがら踊る
※くりかえし
5
ハアー 踊る囃子はヨ
響くやまびこ 響くやまびこ 御殿のお山
※くりかえし
6
ハアー 鴇ヶ嶺からヨ
広い見晴らし 広い見晴らし 皆花ざかり
※くりかえし
7
ハアー 踊る手先にヨ
富士の高嶺も 富士の高嶺も ほんのり霞む
※くりかえし
8
ハアー 心ゆくまでヨ
唄い踊ろよ 唄い踊ろよ かがやく春を
※くりかえし
おまけ
歌詞を元に生成AI「Gemini」にイメージを作ってもらいました!

