東金ばやしのマイルストーン
千葉県の無形民俗文化財、東金ばやしの歴史の中で重要な出来事をタイムラインにまとめてみた

東金ばやしは「日吉神社」と「東金6ヶ村」の存在無しに語ることはできない。
文亀3年の慈雨
日吉神社の神輿の棟札の年号(寛永五年)が連合祭典が始まる以前のものであることから、東金の祭りの源流は更に昔からあったことが考えられる。
東金の人々の崇敬を受ける出来事の一つは今から500年以上さかのぼる。
『神社明細帳』によると日吉神社が山王台から大宮台に遷ってから116年目にあたる文亀3年(西暦1503年)5月、この地域は大旱魃に襲われ苦しんだという(『千葉県誌(上巻)』では元中元年(1383年)としている)。
氏子である東金郷6村(大豆谷村、台方村、辺田方村、押堀村、川場村、堀上村)の人々が熱心の降雨祈願をしたところ、慈雨に恵まれ大厄を免れたと伝えられている。
その後も、東金の人々からの信仰を集めながら歴史を歩むことになる。
因みに、辺田方村とは後の東金町、現在の上宿・谷・岩崎・新宿にあたる。
日吉神社連合祭典のはじまり
最福寺の過去帳によると、東金ばやしを育んだ日吉神社の連合祭典は寛文3年、1663年から始まった。承応年間に起こった訴訟事件、所謂「男蛇池ノ争論」で日吉神社氏子村の東金6ヶ村を含めた10ヶ村側の勝訴となったことへの報謝のためと伝わっている。
祭日は隔年の6月15日(旧暦)と定められ、寛文3年から現代まで日吉神社の祭礼が続くことになる。
東金6ヶ村、現在の9区から楼車を出し、神楽を奏し、歌舞を聯(ツラ)ねたという。
当時の神楽や歌舞がどのようなものであったかは正確には分からないが、東金ばやしの原型はこのころから始まったといえるだろう。
芳村伊三郎による長唄化
それから時代が下り、東金囃子にとって大きな転換点となるのが、明治初頭だ。
長唄の家元である芳村伊三郎。その5代目が東金に逗留したとき、自らかって出て当地の曲を長唄風に編曲し、東金ばやしが現在の形になった。
なぜ東京で活躍する長唄の家元が東金に来ていたのか。
それは、先代の4代目芳村伊三郎が東金近郊の増穂村清名幸谷出身であり、花柳界のあった東金市街に弟子をもっていたことや、八鶴湖畔の最福寺に墓があったことが理由だろう。
5代目も先代から引き継いだ弟子の岩崎の秋山嘉吉(芳村伊三吉)、田原与七などの家で長唄を教授していた。
江戸時代から商売の栄えていた東金は江戸の文化をたしなむ者も多く、長唄の影響があったこと自体は、もっと前の時代の稽古本などから確認できるが、はっきりと東金囃子が長唄化したといえるのは、5代目の頃からといえるだろう。
5代目芳村伊三郎は明治15年11月24日、岩崎の秋山嘉吉方で客死し、その墓は師である4代目の墓の隣に立っている。
県指定無形文化財に
江戸初期から明治の長唄化を経て戦後、脈々と東金市民に受け継がれてきた東金ばやしは遂にその特異性から昭和38年に千葉県の無形文化財に指定される。
代々氏子が自ら演奏していた岩崎区で東金ばやし保存会いわか会(現 い若会)が結成され、指定団体として登録されることになり、追って昭和48年に押堀区の雷ばやしも東金ばやしに含まれるものとして、追加認定された。
昭和52年には東金ばやしを基調とする新宿区の新宿囃子が市の無形民俗文化財に指定されれることになる。
県指定というラベルによって、東金市が生んだ「東金ばやし」が市外にも知られることになっていく
天皇陛下御即位パレードでの曳行
文化財指定され千葉県を代表する伝統文化の一つとして認められた東金ばやしは平成2年11月の天皇陛下の奉祝パレードに出演。
岩崎区の山車をいったん解体し東京で組み立てなおして上野から曳行、東京に東金ばやしの音が響いた。
その後、平成11年、21年、31年。令和元年の奉祝パレードにも出演し、市民の誇りとなっている。
