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大河ドラマ「豊臣兄弟!」に対抗して「島津兄弟‼」いってみよう!


兄弟がいっぱい

来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」です。相変わらず秀吉人気が高いですね。今作は本人ではなく、その弟の秀長にスポットを当てた異色作ですね。彼は典型的なナンバー2であり、完璧な補佐役として豊臣政権を支えた人物であり、その性格から多くの武将や領民に慕われた人でもあったようです。

※歴史上の名補佐役をどう演じるのか…

秀吉は好きでは無いですが弟の秀長は大好きです。面白いのは、彼は大変「お金が好きだった」ということ。蓄財に関して兄の秀吉から「エゲツナイから止めておけ」注意される程でした。私からすれば、お前が言うか!という感じですが、は争えませんね。秀吉がダークサイドに堕ちて行ったのは、奇しくもそんな彼が亡くなってしまったこと原因なのかな?と私は思っています。タガが外れてしまったんですね。頼れる相談役の存在はいつの世も大切ですね。

ところで、豊臣兄弟のように、戦国時代に兄弟で活躍した人たちは結構います。私が思いつくままに挙げてみますと、北条兄弟、武田兄弟、真田兄弟、長宗我部兄弟、三好兄弟、毛利兄弟、島津兄弟、他にも存在するとは思いますが、まあ有名どころはそんなところでしょうか。いずれも当主を有能な弟たちが支えています。今回はその中で、島津兄弟を取り上げてみたいと思います。この兄弟は日本の歴史に深く関わっているので、彼らについて知ることは、そのまま歴史の流れを知ることに繋がると思います。それでは参りましょう。

俗に「島津四兄弟」と言われる義久、義弘、歳久、家久はいずれも鹿児島に本拠を構える戦国大名島津貴久の息子です。この4人はいずれも個性的な才人です。今回私が取り上げるのは、その内の長男義久、次男義弘です。この二人は、豊臣政権と深く関わっているので、日本の歴史の激流に呑まれた兄弟と言ってよいでしょう。

有能過ぎる二人の兄弟

“島津”と聞いて思い出すのは、幕末の雄飛もさることながら、関ケ原での「敵中突破」も忘れることは出来ません。敗戦濃厚の西軍にあって、何があっても鹿児島へ行かねばならない島津義弘。彼を逃がそうと、文字通り命を捨てて行ったサムライたち。涙無くしては語れません。それについてはまた後程書くとして、先ずは島津氏が何ぞやと言うお話から始めましょう。ご存じのように、島津氏は鹿児島に覇を唱えた戦国大名です。島津氏の始祖は忠久という人で、何でも頼朝のご落胤という説があるようですが、それは史実ではありません。いずれにせよ、忠久は頼朝と縁の深い鎌倉の御家人です。島津荘を頼朝から拝領して以来、島津氏は鹿児島を治めているのです。東北の伊達もそうですが、鎌倉時代以来本拠が変わっていない戦国大名家は珍しいですね。それだけ島津は地域に根出した大名だと言うことです。今回の主人公、島津義久と義弘兄弟は、この島津氏第15代当主貴久の息子として生まれます。四兄弟の内、家久を除く3人は同腹兄弟になります。あくまでも私のイメージですが、この4人は比較的仲が良かったと思います。結束力が強かったんでしょうね。現代でもそうですが、親兄弟だかと言って仲が良いとは限りません。むしろ血が繋がっているだけに、一旦関係がこじれると修復が難しいですね。戦国時代は、さらに家族関係が有るからと言って、安心できるものではありません。何せ命懸けてますから。邪魔だと思えば容赦なく殺します。織田信長だって伊達政宗だってそうですよね。弟が邪魔者だと分かれば殺しています。でなければ自分が殺される可能性がありますから。でも、この島津四兄弟はそういうことはなく、お家のためにお互いの役割理解していたようで、協力して難しい戦国時代を乗り切ったといえます。これは私の想像ですが、父の貴久は事あるごとに息子たちに言っていたと思います。

「島津は頼朝公のご落胤を誇る鎌倉以来の名門だ。その家をお前たちの代で潰してはいけない」

毛利元就も息子たちに似たような訓戒をしていますので、恐らく日頃から口酸っぱく言っていたのだと思います。息子たちは父の言いつけを忠実に守ったのだろうと思いますね。

※三本の矢は折れないなんて大変に粋な話ですが、史実ではありません…

貴久の長男である島津義久は、典型的な社長タイプですね。前線に立って指揮をするのではなく、本拠にどしっと腰を据えて、緻密な戦略を練って国の統治を行っています。対して弟の義弘武勇の人です。朝鮮の役での鬼のような活躍は当時から有名でした。その活躍ぶりは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として敵軍(明や朝鮮)から恐れらたようです。家康も義弘の武勇を賞賛していたようですね。島津に手を出すと痛いことになる。そんなイメージが日本中に広まるキッカケとなったようです。その一方で、義弘は人柄にすぐれ愛妻家でもありました。関ケ原の敗走の折に、危険を顧みず大坂にいる妻子をわざわざ連れて逃げています。関ケ原の敵中突破の際、「捨奸」(すてがまり)という戦術で義弘を逃がしたのは、名も無き兵たちでした。

※ゲームでも島津は最強です…

彼らは自らの身を捨て駒にして、主君を戦場から脱出させたのです。1500人いた兵が、鹿児島にたどり着いたのは二桁程度の人数だったと言われています。日ごろから義弘が彼らのことを何かと気にかけていなければ、こうした捨て身の戦法は成功しなかったことでしょう。上司の皆さん、部下は大切にしましょうね。日頃から部下との関係を大事にしておけば、アナタのピンチを救ってくれるかも知れませんよ。

時代に翻弄される二人

さて、そんな義久と義弘ですが、実は豊臣政権下では結構微妙な関係だったようですね。それは秀吉と三成の島津家をコントロール下に置きたいという思惑から生じたものでした。当時、島津家の当主は義久でした。弟の義弘秀吉の側近くに仕え、島津家と豊臣家の間を取り持っていたようです。秀吉はどうやらナンバー2を懐柔するクセがあったようですね。大名家のかく乱を意図していたのか、傑物が好きだったのかは分かりませんが、有名どころの大名家のナンバー2にやたらと手を伸ばしています。例えば、上杉家の直江兼続とか竜造寺家の鍋島直茂とか、そして島津家の義弘なんかですね。竜造寺家の鍋島直茂は非常に有能な人でした。対して主君の竜造寺政家は一般的に愚鈍な人物と言われています。秀吉としては、暗愚な大名に佐賀のような重要な土地を任せるわけにはいかないと思ったんでしょう。手を突っ込んで政家をずり下ろし、直茂に代わって統治させるという荒療治を行っています。秀吉としては自分の息のかかった者を大名として操りたい、そんな思惑があったのでしょうね。秀吉は義弘にも触手を伸ばします。息子の久保と兄の娘である亀寿の婚姻を秀吉が斡旋したのです。島津義久には男子が生まれなかったため、秀吉はこれ幸いとこの婚姻をダシにして、島津をコントロール下に置こうと企んだのです。ところが久保が早死にしてしまったため、その目論見は失敗に終わります。

しかし秀吉はこれで諦めませんでした。義久に本拠の鹿児島から退去するように命ずるのです。代わりに義弘を鹿児島へ入れたんですね。義久は大人しくこの命令に同意します。石田三成は太閤検地を島津領で強引に進めます。歴史の授業で皆さんが太閤検地を習われたと思いますが、秀吉は決して全国規模で太閤検地を成功させたわけではありません。例えばこの島津領では、検地に反対する一揆が起こっています。(各地で反対一揆が起こっています)検地をすることで豪族たちは自分達の土地を、実質豊臣政権に奪われることになりますので、反対するわけです。また検地をすれば隠し田のような「裏金工作」も出来ません。島津家では家臣たち(地主)のこうした不満が鬱積し、秀吉没後に怒りが爆発。三成と共に検地を主導した伊集院忠棟にその矛先が向き、彼は義久(義弘の子忠恒との共謀)によって殺害されています。しかし、後のこの事件が島津家を混乱に陥れるのですが、それはまた後に記します。このように、義久&義弘兄弟は豊臣政権に大いに翻弄されるのです。果たしてその渦中にあって、二人はお互いにどう思っていたのでしょうか?義弘は基本的に兄に忠実だったと思いますが、秀吉からの圧力をどう感じていたのでしょうか?また、一方の義久は、秀吉と弟の繋がりをどう感じていたのか?彼らの心情をアレコレと想像するのも楽しいものです。

そして「関ヶ原」

そんなこんなで秀吉が死にます。もう皆さんもご存じのように、そして関ヶ原の戦いがやって来ます。この天下分け目の戦いにおいて、この二人の兄弟は一体どんな状況に置かれていたのでしょうか?兄の義久は九州にいます。一方の義弘は秀吉に供奉していたこともあり、京都の伏見にいたのです。なんでも、家康から伏見城を守って欲しいと依頼されていたようですね。ところが三成の挙兵後にいざ城へ入ろうとすると、守将であった鳥居元忠から拒絶されます。これについては理由がよく分からないんですね。だって元忠の主君は家康なのですから、その家康から頼まれて城へ入ろうとしたんです。でも断られる。何じゃコレです。義弘もそう思ったに違いありません。元忠としては、どうせ自分は討ち死にするので、島津を巻き込みたくないと思ったのか、あるいはよそ者は信用ならんと感じたのか、とにかく入城を拒むんですね。仕方が無く義弘は三成方につくわけです。ですので、島津家は最初から豊臣方だったわけではないのです。徳川に与しようと思っていたのに断られ、渋々西軍に味方する羽目になったのですね。そんな彼が悲惨だったのは、その兵力の少なさでした。たったの1500人しかいません。これはヤバいです。当然国元の兄に援軍要請します。ところが、国元に居た義久と忠恒はこれを拒否します。

「お前らは俺を殺す気か!」

義弘は烈火のごとく怒ったでしょうね。兄のみならず、息子の忠恒にも断られるとは、親父の面子丸つぶれです。しかし、国元にも援軍を送れないちゃんとした理由があるんですね。伊集院忠棟の殺害や太閤検地の強要を機に発生した「庄内の乱」の平定で国内が疲弊していたこと。さらに忠棟の息子である忠真加藤清正(敵である家康方)らへの警戒のために兵を温存しなければなりませんでした。それに京都にいる義弘に鹿児島から兵を送るとなると、莫大な資金が必要となりますね。船に乗せていくのでしょうが、兵たちの食費や武具の調達費などを考えるとバカになりません。そんな余裕は国元にありません。二人が義弘の要求に応じなかったのも無理はないのです。よく、島津は中央のことには関心がないなんて言われますが、それが増援を断った理由ではありません。実に切実な理由があったのです。義弘は怒りが抑えられなかったでしょうが仕方がないのです。彼は忸怩たる想いを抱きながら、関ヶ原のへと向かうのでした。

さて、いよいよ島津義弘メインイベントである関ヶ原の戦いを迎えます。関ケ原は俗に言う「小早川秀秋の裏切り」によって、よーいドンで終わってしまいました。関ケ原については俗説が蔓延しているため、ここで少し皆さんの誤解を解きたいと思います。先ず、小早川秀秋は当日に裏切ってなどいません。彼は戦いの前日には、家康方につく旨を約束しています。彼は西軍として大垣城にいたのですが、突然松尾山に移動したんですね。しかも、当時松尾山には大垣城主の伊藤盛正(西軍)がいたんです。彼に「どけ!」と言って無理やり布陣したんですね。恐らく、三成はこの行動を見て、秀秋が家康側についたことを悟ったと思います。西軍は大垣城の籠城をやめ、関ヶ原へ布陣します。家康の大坂への進軍を止める意味もあったのかもしれませんね。秀秋は秀吉から領地没収の命令を受ける等、親族とは言え決して関係はよくありませんでした。むしろ、そんな秀秋に色々と助け船を出していたのが家康です。もちろん、家康は後のために手を打ったに過ぎないのですが、秀秋は随分と恩義に感じていたことでしょう。ですから、彼が徳川方として参陣することは何も不思議ではないのです。当日は開戦と同時に小早川軍は大谷吉継隊に向けて進撃しており、赤座直保や小川祐忠等の裏切り(この人たちは正真正銘の裏切りです)部隊も一斉に雪崩込み、あっという間に西軍は総崩れとなります。ですから、有名な「問い鉄砲」(家康が秀秋に向けて催促の鉄砲を放った)のエピソードも無ければ、午前中の西軍の善戦もありません。小早川軍の活躍で一瞬にして終わってしまったのです。裏切りかどうかは、家康の戦後処理を見たらわかります。寝返ったうちの赤座、小川、朽木らは領地没収などの厳しい処分でしたが、小早川秀秋脇坂安治加増ないしは処分なしでした。これは、当日の状況判断によって寝返ったのか、事前に家康側へついていたのかの違いですね。バスに乗り遅れるなとばかりに裏切った大名処分されてしまった、ということです。世間はともかく、少なくとも家康としては、秀秋と脇坂安治は「裏切り」ではないと考えていたのです。先を見通す目は本当に大切ですね。

では島津義弘は一体この時何をしていたのか?俗説では、前日に三成に対して夜襲を進言したことを拒絶されたため、兵を動かさなかったなどというものもありますが、実際はそうではありません。兵を動かす間もなく、戦が終わってしまったというのが実情です。つまり、もはや逃げる他に手が無くなっていたのです。その後の義弘の状況は先に書いた通りです。とにかく悲惨な逃避行の末、彼は妻子を連れて鹿児島へたどり着くことが出来ました。

やっぱり「鬼島津」

戦後、当然家康は島津家に対して義弘「出せ」と要求します。ところが兄の義久はその要求をノラリクラリとかわし続けます。家康サイドにも、井伊直政などの島津寄りの武将がいたようで、家康を粘り強く説得したようですね。直政は、島津の的中突破深手を負ったのですが、さすが一流の武将ですね。英雄は英雄を知るです。自分に傷を負わせた義弘の武勇に惚れていたんでしょう。彼の赦免に奔走します。家康はシビレを切らして島津討伐を決定しますが膠着状態が続きます。このままでは再び国内が混乱する恐れを感じた家康は、最終的に島津を許すという判断に落ち着いたようです。鬼島津の面目躍如ですね。義弘の息子である忠恒への家督相続が認められました。
その後、徳川家は島津家と婚姻関係を結ぶなど関係の維持に苦心します。徳川家もなんだかんだ言って、島津が怖かったんだと思います。ご存じのように、幕末、島津家から嫁いだ篤姫徳川家の存続に奔走しました。もしかすると、家康が島津を不問に付したことへの返礼だったのかも知れません。面白いもので、歴史は時を経て繋がっているのですね。

※このドラマは大好きでした…

島津家
というと、真っ先に私たちは幕末の雄飛を思い浮かべるのですが、実は幕府が出来る前から、このように島津家は日本の歴史と深く関わっていたのです。二人の兄弟は歴史の波に翻弄されるわけですが、彼らの人生が、実はそのまま日本の歴史といって過言ではないのです。何も豊臣兄弟だけが、この国の歴史を担ったわけでないのです。

                              恐々謹言


【参考文献】

新名一仁/徳永和喜著「島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略」(PHP新書)

白峰旬著「新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い」
(宮帯出版社)



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