正月、顔面落書き戦争
第一章 開戦
「はるな、そのルール本当にやる気?」
たかしは炬燵に片肘をついたまま、目の前に広げられた油性ペンとおしぼりを交互に見た。三色セットの油性ペン、それから「消す用」のメイク落としシート。用意周到すぎる。
「当たり前でしょ。羽根つきで負けた方が、顔に落書きされる。正月の伝統行事だから」
「そんな伝統聞いたことないけど」
「今日から伝統になるの」
はるなは羽子板をくるりと回すと、羽根を宙に放り投げた。パン、と乾いた音が部屋に響く。実家の広い和室、こたつの上にはみかんの皮が山になっていて、テレビからはどうでもいい正月特番の笑い声が流れている。幼馴染の二人にとって、これはもう十何回目かの正月だった。
幼い頃は一緒に初詣に行き、年始のおせちを食べ、凧上げに興じた。そしていつしか、こうした馬鹿馬鹿しい遊びを思いつくようになった。正月の実家では、退屈から解放されるための秘密基地のような場所。二人きりになれて、誰に見られるわけでもなく、笑い合える時間。
「言っとくけど、私、羽根つきだけは負けたことないから」
「知ってる。だからこそ怖いんだよ」
たかしは羽子板を構えながら、内心で身構えた。はるなの羽根つきは伊達じゃない。小学生の頃から近所で無敗を誇っていたのを、たかしは十年以上見てきている。その時間の重さを知っているから、こそ、負けることはほぼ確実だった。
「じゃ、いくよ」
はるなの構えが変わった瞬間、たかしは覚悟を決めた。今日という日が、自分の顔面にとって受難の一日になることを。
第二章 敗北の記録
結論から言うと、たかしは五連敗した。
「なんで、羽根つきの、ラリーで、五回連続で、負けるの」
はるなは笑いながらペンのキャップを外す。赤・青・黒、三色が並んだそれを見て、たかしは思わず後ずさった。
「ちょっと待って、五回分まとめてやるつもり?」
「当たり前でしょ、ルールはルール」
「鬼か」
「鬼です」
有無を言わさず、はるなはたかしの頬に赤いペン先を押し当てた。ひんやりとした感触とともに、丸が一つ描かれる。
「…猫のひげ、描いてる?」
「ばれた? じゃあ次は反対側にも」
二本目の頬に、同じようにひげが三本ずつ生えていく。はるなの笑い声が部屋に響き、たかしはもう逃げられない運命を悟った。三敗目で額に大きな星、四敗目で鼻先に黒い丸(豚の鼻らしい)、五敗目でとどめとばかりに顎に「はるな軍」という小さな文字が刻まれた。
「……本当に容赦ないな、お前」
「サービス精神旺盛なだけです」
たかしはスマホのインカメラで自分の顔を見て、思わず声を上げた。猫のひげと豚の鼻と星と謎の所属表示という、収拾のつかないカオスな顔面がそこにあった。鏡の中の自分の顔は、もはや誰かの別人格のようだった。
「これ、絶対人に見せられない顔じゃん」
「大丈夫、私しか見てないから」
その言葉には、妙に深い意味があるように聞こえた。たかしはスマホを置き、はるなを見た。相手は気にした様子もなく、次のラリーの準備を始めている。
「次は本気出すから、覚悟しといてね」
不穏な一言とともに、はるなはペンをもう一度握り直した。
第三章 逆転の兆し、そして更なる惨劇
「よし、次は絶対勝つ」
たかしは羽子板を握り直し、目を見開いた。五連敗という屈辱を晴らすべく、今度こそはるなの羽根を打ち返す。なぜか、この時点では自分が勝てる気がしていた。
「へー、その顔でよく言うね」
「うるさい。集中させて」
パン、パン、パン、と羽根が二人の間を往復する。今までにない緊張感が漂う中、たかしは初めて三往復目に踏みとどまった。
「お、いけるじゃん」
「だろ。今日の俺は違う」
短い勝利感が胸をよぎる。しかし油断もつかの間、四往復目でたかしの羽子板が空を切った。
「……嘘だろ」
「六連敗、おめでとうございます」
はるなは拍手までしてみせた。悪魔かこいつは、とたかしは本気で思った。
六敗目、はるなは新しいアイデアを思いついたらしく、たかしの両頬に大きなハートマークを二つ描いた。ピンク色のペンが頬を滑る感覚は、さっきまでの赤ペンとは異なる。なぜか妙に気になった。さらに、鼻筋に沿って「バカ」という文字を丁寧に書き足す。
もはや猫でも豚でもない、意味不明な顔面アートが完成しつつあった。
「あのさ、そろそろ俺の顔、収拾つかなくなってきてない?」
「大丈夫、まだキャンバスに余白あるから」
「その言い方やめて」
とはいえ、たかしも内心では悪い気はしていなかった。毎年恒例のこの馬鹿らしいやり取りが、実は結構好きだったりする。はるなが本気で笑っている顔を見られるのも、こういう時くらいだから。その笑い声に、自分の心臓がどうしようもなく反応してしまうことも。
「ねえ、次負けたらどうなるの俺」
「うーん、次はもう顔全部塗りつぶそうかな」
「それもう落書きじゃなくて塗装だろ」
「肉の色に近づけていくの。人間から肉になる過程を記録するアート」
「怖すぎる発想やめて」
七敗目、ついにはるなは宣言通り、たかしの頬全体を薄いピンクで塗り始めた。もはや個々のパーツではなく、面としての侵食が始まっていた。ペン先が動くたび、たかしは自分が彼女によって別の何かに改造されていく感覚に襲われた。
「これもう笑いを通り越して怖いよ」
「芸術に理解のない男だなあ」
「芸術じゃなくて拷問だよ、これ」
八敗目、九敗目と続く。羽根つきのラリーはもはや形式上のものになっていた。たかしは負けることを前提に、羽子板を動かしている。そしてはるなも、それを知っている。それでも二人は続ける。この時間を続けるために。
そして十敗目。最後の一本。
「おめでとう、完成」
はるなはペンを置いた。
第四章 完成、そして温泉
その日の羽根つき対決はたかしの十連敗という歴史的大敗で幕を閉じた。はるなの言葉を借りるなら「肉の完成」である。額から顎まで、ピンクと赤の濃淡で塗り込まれ、その上に猫のひげと豚の鼻とハートマークと謎の「バカ」の文字が乗っかった、もはや誰にも理解できない前衛アートがたかしの顔面に完成していた。
「はい、完成。傑作だと思う」
「これのどこが傑作だよ。俺、もう人間の顔してないじゃん」
「肉だからね。人間じゃなくて」
「その理屈やめてくれ」
たかしは鏡を見て、思わず脱力した。もう笑うしかない出来栄えだった。
「……で、これ、どうやって落とすの」
「メイク落としシートあるよ」
「一枚じゃ絶対足りないやつだろ、これ」
はるなはシートの束を差し出しながら、少し考えるような顔をした。その顔は、いつもの悪魔のような笑顔ではなく、妙に柔らかい表情だった。
「あ、そうだ。もうお風呂沸いてるし、一緒に入って洗い流す?」
「はっ?」
「シートでちまちま拭くより早いでしょ。実家の風呂広いし」
「いや、その理屈は分かるけど、一緒には入らないだろ普通」
「今更でしょ。子供の頃、何回も一緒に入ってたじゃん」
「それは小学生の頃の話で……」
「細かいこと気にしないの。ほら、行くよ」
有無を言わさず腕を引かれ、たかしは脱衣所まで連行された。理不尽な連敗に続いて、理不尽な連行である。しかし、抵抗する気はなかった。
「……本当にいいのかよ、これ」
「いいの。むしろ私が描いた落書きだから、責任持って落とすべきでしょ」
はるなは浴室で、まず自分から服を脱いだ。たかしも後に続き、二人は湯気の立ち込める浴槽に浸かった。子どもの頃のように、何の気兼ねもなく。けれど、背中越しに感じる相手の存在は、確実に違うものになっていた。
「顔、こっち向いて」
はるなはタオルを泡立てながら、たかしの顔にそっと当てた。丁寧に、猫のひげを、豚の鼻を、ハートマークを、そして「バカ」の文字を一つずつ洗い流していく。その指の動きは意外に優しく、掌に触れる温かさがたかしの心臓を揺さぶった。
湯船の湯気の向こうで、はるなの顔がいつもよりちょっとだけ柔らかく見えた。その横顔に、たかしはしばらく気を取られていた。
「ねえ、どうして急に優しいわけ」
「自分で描いた責任、取ってるだけだから」
「さっきまで悪魔みたいに笑ってたのに」
「それとこれとは話が別」
はるなは笑った。その笑い声は、先ほどの悪魔めいたものではなく、どこか優しく聞こえた。
湯船に浸かりながら、たかしはようやく人間の顔を取り戻していく自分の頬を撫でた。はるなはその様子をそっと見守っている。窓の外では、正月らしい静かな空気が漂っている。
「なあ、来年もこれやるの?」
「当たり前でしょ。来年は塗る色増やすから」
「増やすのかよ」
「今年で味しめたから」
はるなは笑いながら、湯船の縁に頬杖をついた。その笑顔を見ながら、たかしはこっそり思う。理不尽な連敗も、意味不明な落書きも、こうして二人で笑い合って終われるなら、それはそれで悪くない正月なのかもしれない、と。
来年もまた、この馬鹿げた戦争が始まるのだろう。そしてまた、たかしはきっと負ける。
けれど今はそれで十分だった。
