【読書記録】長い旅の途上 / 星野道夫
感想
星野道夫さんの著作を読むのは4冊目。
『旅をする木』を読み自分の人生観に大きな影響を与えられ、これまで親しみを持って読んできた。
私は山が好きで、仕事でも山や木に深く関わっている。
そうした生き方を選んでいるのは、星野さんの自然観に触れたことがきっかけと言える。
「自然破壊はダメだ!」と言うのではない。
もちろんダメだが、人間が世界で生きていく中で節度を持って自然にあるものを使うのは当然のことだと考えている。
私は、「自然を感じられることが豊かさである」ということを、星野さんの著作に触れて考えるようになった。
人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う。(p74)
私たちが日々あくせくしている今この瞬間にも、アラスカではクジラが水面を飛び跳ねているかもしれない。
そう思えるだけで、少し気持ちが軽くなるのだ。
人間が世界から見れば小さな存在であり、自然の中に「住まわせてもらっている」という実感を得ることができれば、人はもう少し寛容に生きられると思う。
私は星野さんのように外国に移住しようとは思っていないけど、このような感覚を一人でも多くの人に伝えて、「自然を近くに感じる」チャンスが増えればいいと思った。
だから、仕事でも森や木に関わり、日本の木のことを伝えようと思うに至った。
私など、自然の前ではとてもとても小さな存在に過ぎないが、それでも世界を構成する一員として、少しでも自然のために何かを残していける命でありたいと思っている。
メモ
はじめての冬
同じ場所に立っていても、さまざまな人間が、それぞれの人生を通して別の風景を見ているのかもしれない。(p11)
人はみんな違った人生を歩んでいる。同じものを見ても、見える世界は違う。
それなのに、ぼくは泣き叫ぶ息子を見つめながら、”この子は一人で生きてゆくんだな”とぼんやり考えている。たとえ親であっても、子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。ただひとつできることは、いつまでも見守ってあげるということだけだ。その限界を知ったとき、なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。(p12)
我が子といえど、違う人生を生きる別の人間であり、本当の意味で理解することはできないというのは、子を持つ身として共感できる。分かったような気がしているが、思いもよらない言動を行うことは茶飯事だ。すべてを理解することはできないから、ただいつまでも見守ることが親のできることという星野さんの考え方は、相手を一人の人間として見ていて素敵だ。
が、おそらく一番懐かしいものは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もないただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。それはきっと、ある種の素晴らしさと、それと同じくらいのつまらなさをも内包しているのだろう。まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。(p13)
今この瞬間を生きているという感覚を、日々忙しなく過ごしていると忘れてしまっている。ありもしない未来のことで頭を悩ませている。未来はいまの積み重ねであるはずなのに。
日々の暮らしのなかで、"今、この瞬間”とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは”自然”という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。
”内なる自然”との出会いである。何も生みだすことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。(p14)
私が山に行って内省する時間を持つことも、内なる自然と出会っていると言えるだろうか。ただぼんやりと山を歩いているだけだが、そこに流れている時間や空気を楽しんでいる。
約束の川
シリアもジニーも、何が待っているかわからないアラスカの自然に生きてきた。大切なことは、出発することだった。(p20)
何が起きるかなんて分からない。だから大切なのは、出発してみること。真っ直ぐな言葉だけに胸を打つ。
誰もが、それぞれの老いに、いつか出会ってゆく。それは、しんとした冬の夜、誰かがドアをたたくように訪れるものなのだろうか。(p22)
素敵な例え。ガクンと急に来るのではなく、緩やかに静かにやってくるのかもしれない。それぞれに老い方は違う。
ある親子の再生
「息子はおれの命の恩人なんだ」と、かつてウィリーが言ったことがある。
より多くの黒人が、より危険な前線に送り出されたように、エスキモーやインディアンの若者たちもまた同じ運命をたどった。ベトナム戦争で五万八一三二人の米兵が命を落としたが、戦後、その三倍にも及ぶ約十五万人のベトナム帰還兵が自殺していることはあまり知られてはいない。ウィリーもやがて精神に破綻をきたし、首をつって自殺を図る。が、その時、わずか七歳だった息子が必死に父親の身体を下から支え続けたという。(p35)
痛々しい。同世代の子供を持つ私にとってはあまりに辛い。戦争は終わってからも続いている。
きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ。(p37)
人生を今の視点で見つめると、目の前の狭い範囲しか見えない。しかし本当はとても長い道のりだ。それに気が付くためには星野さんのように、人間の人生なんか比べものにならない自然を感じることが必要なのかもしれない。
ザトウクジラを追って
クジラは圧倒的な生きものだった。小さなアリが生きる姿に目を奪われるように、僕たちは巨大なクジラに感動する。だがそれは、生命のもつ不思議さというより、一頭のクジラの一生を超えた果てしない時の流れにうたれているような思いがする。それは人間をも含めた生物の進化とか、地球とか、宇宙につながっていくような存在だった。(p54)
人の一生は短い。だからこそ、自然のように人間には遠く及ばない長い時間の流れに憧れや畏れを抱くのだろう。
カリブーフェンス
アラスカに根をおろそうと思い始めてから、僕はこの土地の過ぎ去った歴史が気になって仕方がない。その切れ目のないつながりの果てに、今、自分がアラスカで呼吸をしている。きっとウォルターも同じような思いでこの土地を見つめているのかもしれない。(p61)
自分のいる場所のことを、どれだけ知っているだろうか。その土地を深く知ることは、人生の豊かさに繋がると思う。
遥かなる足音
この世に生きるすべてのものは、いつか土に帰り、また旅が始まる。有機物と無機物、生きるものと死すものとの境は、一体どこにあるのだろう。
いつの日か自分の肉体が滅びた時、私もまた、好きだった場所で土に帰りたいと思う。
ツンドラの植物にわずかな養分を与え、極北の小さな花を咲かせ、毎年春になれば、カリブーの足音が遠い彼方から聞こえてくる・・・・・そんなことを、私は時々考えることがある。(p70)
星野さんの言葉は、長くゆったりした時間を感じさせてくれて、目の前にあるせかせかしたものを忘れられる。自分が死んだ時も、好きな場所の土に還りたい。
悠久の自然
僕には彼の気持ちが痛いほどよくわかった。日々の暮らしに追われている時、もうひとつの別の時間が流れている。それを悠久の自然と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がするのだ。
人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う。(p74)
これが、過去に読んだ星野さんの文章の中でも私がとりわけ素晴らしいと思うもの。身近な自然と遥か遠い自然。自分が忙しくしているまさにその時、北海道ではヒグマが歩き、アラスカではクジラが水面を跳ねているかもしれない。そう思えるだけで、少し心が軽くなって、空から見下ろしているような気分になれるのだ。すべてのものに平等に時間が流れている。自分の視点だけでなく、世界そのものを相対的に見る目を星野さんはこのような体験から得たと言う。
冬
いつか友人が、この土地の暮らしについてこんなふうに言っていた。
”寒さが人の気持ちを暖かくする。遠く離れていることが、人と人の心を近づけるんだ"と。(p77)
アラスカの厳しい冬の中に暖かさを見出す星野さんの文章は素敵だ。寒いと暖かい、遠いと近い。二つの対比がある良い文章。
可憐な花
とりわけ花が好きな彼女は、私と一緒に撮影に出かける先々で、わずか一年の間にたくさんの花と出会ってきた。アラスカの原野に咲く、可憐で、小さな極北の花々にすっかり魅せられたらしい。そして、冬が長い北の暮らしで、短い夏の季節に咲く花々が、どれだけ人々の心に安らぎを与えるのかも感じとったようである。もしこの土地に冬がなければ、もし一年中花が咲いているとしたら、人々はこれほど強い花への想いをもちえないだろう。(p84)
厳しい冬があるから、短い夏に咲く花に心を奪われる。人は無いものに憧れを持つ。今の人たちがオフィスに自然を取り入れたりするのも、自然を身近に感じられないからなのかもしれない。
今はもう十月。太陽の沈まない、光り輝く花の季節は遠くへ去り、美しい秋色もすっかり色あせた。が、それを悲しむのはまだ早い。風に舞う落葉を眺め、カサカサと枯れ葉を踏みしめる、不思議に穏やかな時間がまだそこにある。満ち潮が押し寄せ、再び引いてゆく前の、海の静けさのような時。人の一生にも、そんな季節があるだろうか。(p86)
素敵な表現だ。怒涛のような変化を望む人もいるかもしれないが、私はこんな穏やかな日々を過ごしていきたいと思っている。
アラスカの夏
長く、きびしい冬があるというのはいいことだ。もし冬がなければ、春の訪れや、太陽の沈まぬ夏、そして美しい極北の秋にこれほど感謝することはできないだろう。もし一年中花が咲いているなら、人々はこれほど強い花に対する想いをもてないだろう。雪どけと共にいっせいに花が咲き始めるのは、長い冬の間、植物たちは雪の下ですっかり準備をととのえていたからではないか。そして人の心もまた、暗黒の冬に、花々への想いをたっぷりと募らせているような気がする。(p94)
辛い時期を超え、その先の未来に思いを馳せる。辛い時があるから、未来に希望が持てるし、ありがたみを持てる。
ザトウクジラの優雅な舞い
後に残されたものは、それを見つめる人間の乏しい想像力だけ。”クジラはなぜ海から出て宙に舞うのだろう"という、永久に答の出ない問い。これまで語り尽くされた、さまざまな動物行動学的な解釈。けれども、行為の前に目的がある必要はないのだ。ただ何となく、飛び上がってみたかったのかもしれない。ただ何となく、風を感じてみたかったのかもしれない。(p104)
人はいつも「なぜ?」と答えを求めるが、ただただそれをやりたいとか、気分でとか、そんな時があってもいい。
アラスカ山脈の冬 自然の猛威
きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう。なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越した冬にかかっているからだ。冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、幸福と不幸のあり方にどこか似ている。(p125)
「喜びの大きさは、その前の苦しみの大きさによって変わる」確かにその通りだと思う。
自然のささやき
子どもから大人へと成長し、やがて老いてゆく人間のそれぞれの時代に、自然はさまざまな言葉を語りかけてくるものらしい。その声に耳をすませているうちに、気がつくと十八年がたっていた。
きっと、私たちには、多くの選択などないのかもしれない。それぞれの人間が、行き着くべきところに、ただ行き着くだけである。(p140)
星野さんのこうした人生観が好きだ。自分の力で人生を切り拓くとか、かっこいいと思うこともあるが、人間が自然の前では小さな存在である以上、生かされているし、なるようになるのだ。
オーロラ
私たちは、二つの時間を持って生きている。カレンダーや時計の針に刻まれる慌ただしい日常と、もう一つは漠然とした生命の時間である。すべてのものに、平等に同じ時が流れていること…・・・・その不思議さが、私たちにもう一つの時間を気付かせ、日々の暮らしにはるかな視点を与えてくれるような気がする。(p142)
自分の目の前だけでいっぱいになってしまうことがある。しかし、そんな時にもアラスカではオーロラが出ていて、のんびりとそれを眺める人がいるかもしれない。
カリブーの旅
きっと人間には、二つの大切な自然がある。日々の暮らしの中でかかわる身近な自然、それは何でもない川や小さな森であったり、風がなでてゆく路傍の草の輝きかもしれない。そしてもう一つは、訪れることのない遠い自然である。ただそこに在るという意識を持てるだけで、私たちに想像力という豊かさを与えてくれる。そんな遠い自然の大切さがきっとあるように思う。(p163)
近くの自然を大切に見つけることも、遥か遠い自然に思いを馳せることも、大事なことだ。それができたら、心に少しのゆとりができる。
季節の色
私は季節の動く瞬間が好きだ。紅葉のピークがわずか一日のように、透き通る若葉の季節も一瞬である。ただ無窮の彼方へと流れゆく時に、巡る季節でふと立ち止まることができる。自然とは何と粋な計らいをするものなのだろう。それぞれの美しい季節にこの世であと何度、巡り合えるのか。その数を数えるほど人の一生の短さを知るすべはない。自然の色に、私たちはたった一回の生命を生きていることを教えられるのだ。(p170)
人の一生の短さを季節の移ろいをあと何度見られるかという考え方で感じる星野さん。素敵な季節の捉え方だと思う。
ベリー・ギルバート
それから十年がたち、ベリーはアラスカで再びクマの研究を始めようとしている。テーマは、「人間とクマの共存」。
「動物の脳というのは、気の遠くなるような時間をかけて作られた一冊の本なのだと思う。その中に、どこかで人間がいるんだ。関わってきたんだからね」ある晩、ストーブにあたりながら、ベリーは自分の自然観を話し始めた。
「生物の種が消えてゆくということは、人間が自分たちのことを知る図書室から、一冊ずつ本をなくしてゆくことなんだ。ミステリアスなパズルを解く鍵をひとつずつ落としてしまうことなんだよ」(p243)
ベリー氏の素敵な自然の表現。
動物たちは「長い時間をかけて作られた本」であり、世界が長い時間をかけて積み上げてきたものを蓄積している。
そんな動物たちや自然を、人間たちは短い時間で破壊しようとしている。
しかし一方で、それを守ろうとする人たちもいる。
大切なことは、その両方を知り、自分の意見を持つことだと思う。
カリブーの谷
ずっと昔、別えば一千年も前のある春の日、同じ一枚岩のテラスの上から誰かがカリブーを見ていただろうか。これだけ狩猟の地の利を得た谷だ。もしそうであるなら、その狩人はエスキモー、それとも極北のインディアン?誰も知らない無名の谷だけど、きっとたくさんの物語を秘めているにちがいない。(p255)
自然は人の一生より遥かに長い時間そこにあり続ける。
