【読書記録】なぜ働いていると本が読めなくなるのか / 三宅香帆
感想
「半身で働こう」
三宅さんの主張には共感できる。
私は以前は残業が多く、仕事に全身で取り組んでいた。
しかしそんな生き方で、家族には苦労をかけ、自分の健康も害し、5年前に環境を変え、今はほとんど残業をせずに仕事を終えるようにしている。
仕事の手を抜いているわけではないし、むしろ短い時間で仕事を行うのだから、より大変なくらいだ。
しかし今は仕事が楽しい。
家族も自身も健康だ。
そうあれるように努力してきた結果ではあるが、この本で三宅さんの言うように、私はこれまで読んできたたくさんの本から得た文脈によって、今の状態に導かれたと思っている。
例えば星野道夫さんの『旅をする木』や、鴨長明の『方丈記』がそうだ。
これらの本を読み、『自分以外の場所がある』『自分ではどうにもならないことがある』ということを知った。
私がどれだけ残業しようが、正直社会はそれほど良くならない。
むしろそれによって家族や自分は健康を害し崩壊する。
余暇を楽しむ時間もない。
それなら、何が何でも仕事は仕事と割り切って、余暇の時間で家族と過ごし、自分の好きなことをすることを心掛けた。
だから今がある。
仕事は忙しいが、面白くて楽しい。
それは仕事以外の時間がちゃんとあって、家族と時間を分け合えているから感じられることだ。
メモ
現代の労働は、労働以外の時間を犠牲にすることで成立している。(p21)
どういう働き方であれば、人間らしく、労働と文化を両立できるのか?(p23)
この本の問い。
「ぼちぼち働く」ことが解じゃないかと個人的には思う。
あまり仕事にのめり込みすぎてもロクなことはない。
仕事は食い扶持を稼ぐためにやらなくてはならないが、あくまでそれなのだ。
立身出世主義ということが、この時代のすべての青年をうごかしている。個人の栄達が国家の利益に合致するという点でたれひとり疑わぬ時代であり、この点では、日本の歴史のなかでもめずらしい時期だったといえる。
(司馬遼太郎「坂の上の雲」)(p121)
読書がエリートだけでなく労働者階級の誰でも楽しめるようになって、段々と浸透していく様は面白かった。
今でも書店で売れている本、読まれている本は、世相を反映している。
三宅さんの言うように、「パパッと知識を得られるタイパの良い本」的なものがあまりに多い。
しかし、今では『坂の上の雲』の時代にように、学び続ければ必ず立身出世できる世の中ではなくなっているし、なんだか行き詰まり感がある。
「身を立てたい」よりは「他人に劣りたくない」という、ただ自分を修練していくのではくて相対的に他人に負けないような感覚を手早く得たいという雰囲気を現代から感じる。
ただぼーっと自分の好きな本に没頭してホクホクするような読書時間というのが、私は好きだ。
読書なんて、何の役に立たなくてもいいのだ。
つまり、高度経済成長期を経て、欧米と肩を並べる日本という存在を考えたとき、歴史や日本文化の伝統を持ち出しながら、日本人的振る舞いを肯定したくなる。だが一方でその裏には、不安があった。このまま昔と同じように、日本が坂の上を目指して、ただ坂道をのほっていける時代はもう来ないのではないか、と。
竜馬や、「坂の上の雲」の秋山兄弟のように、近代国家として日本が先進国に追いつこうとした時代の男たちのように1自分たちが生きられた時代はたしかにあった。それは60年代へのノスタルジーだった。(p139)
『坂の上の雲』『燃えよ剣』と司馬遼太郎の作品は二つ読んでいるが、やっぱりサラリーマンである私は組織やリーダーというものに重ねて読んでしまう。
「こんなふうに気高くありたい」
そう思わされる。
今は司馬遼太郎作品が広く読まれた時のように、「やればやるだけ成功に近づく」というような、坂の上に駆け上がれるような気配が何となく感じられない世の中だ。
だからこそ、「ああ、こんなだったらいいのに」と癒されるのかもしれない。
つまり読書は常に、階級の差異を確認し、そして優越を示すための道具になりやすい。(p160)
だとすれば、読書や教養とはつまり、学歴を手にしていない人々が階級を上がろうとする際に身につけるべきものを探す作業を名づけたものだったのかもしれない。(p162)
読書を誰でも好きなように楽しめる今は、どれだけ恵まれているだろうと思う。
何年、下手すれば何百年も前の本だって数百円で買えて読めてしまう。
奇跡的だ。
私は読書によって人と差をつけようとは思っておらず、ただ好きなように読み続けている。
しかし仕事の場で「読書が趣味です」と言うと、当たり前のようにビジネス系の本を読んでいるものと思われたりする。
この感じに違和感を覚える。
「仕事をしている=ビジネス書を読む」みたいなことである必要はないはずなのだが、何となくそうでないと読書は意味のないものと思われている節があって、気に食わない。
「別に何読んでもええやん。みんなスマホでゲームしたり動画観たりするでしょ?あれが私にとっては読書なだけだよ。」
そう思う。
経済は自分たちの手で変えられるものではなく、神の手によって大きな流れが生まれるものだ。つまり、自分たちが参加する前から、すでにそこには経済の大きな波がある。そして、その波にうまく乗ったものと、うまく乗れなかったものに分けられる。格差は、経済の大きな波に乗れたか乗れなかったか、適合できたかどうかによって、決まる。大きな社会の波に乗れたかどうかで、成功が決まるし。(p174)
今はまさに、「自分が頑張ったところでどうにもならない」時代だ。
だから三宅さんの言うように、「自分をコントロールして波に乗る」ようなセルフブランディングが超大事!という時代になっている。
相対的に見て他人から自分がどう見えるのか?
どうあれば良い評価を得られるのか?
そんな風な考え方が行動原理になっていたりする。
私は社内で浮いている。
それは、会社の流れに逆らうようなことをするからだ。
ぷかぷか浮いて流されているだけなら楽かもしれないが、その先で滝から落ちて死ぬかもしれない。
そんなのは絶対に嫌だ。
だから「こうした方がいい」「これじゃだめだ」と言うし、行動もする。だから浮く。
経済からは浮きたくないが、会社の中ではどうでもいいと思っていて、むしろ流されないように水底に棒を突き刺して踏ん張っている。
そんなやつが一人くらいはいてもいい。
「情報」と「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。
つまり読書して得る知識にはノイズー1偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった側然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。
しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。(p205)
知りたいことだけ手早く知る。それが得意なのがインターネットの情報。
しかしなんだか退屈な気がする。
本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。
だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
自分から遠く離れた文脈に触れること、それが読書なのである。
そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。
自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。(p234)
「半身で働く」ことを三宅さんは推奨している。
これはとても共感できる。
私は仕事が好きだが、定時として決められた以外の時間は働きたくない。
家族と過ごしたり、好きな本を読んだり、山を歩いたりしたい。
余暇を楽しむために仕事はあり、余暇を楽しむことに人生の価値がある。
そして、知らないことを知るということは、自分を思いもよらないところへ連れて行ってくれる。
だからこそ、自分には関係のないものにたくさん触れていくために、読書は大切なのだ。
たとえばSNSを眺めれば、他人が仕事の成果を報告している様子が目に入り、私たちは「もっと自分が輝ける好きな仕事をできるのではないか、そのための努力が足りないのではないか」と自ら感じてしまう。あるいはもう疲れ切っているのに、疲れていると思われたくなくて、「自分はこんなに仕事を頑張った、たくさんの情報を処理して、たくさんの成果を上げた」と自らアピールしたくなってしまう。
決して、自分以外の外部に強制されているわけではない。
自らで自らを競争に参加させ、そして自分で自分を搾取してしまうのだ。
本当は、疲労しているのに。
疲労に気づかないふりをしてしまう。
それが現代の病だとハンは説いている。(p247)
たしかに今はすぐに他人と比較できてしまうようになってしまった。
それによって、ある程度のプライドのある人は「あの人に比べて私は」と傷ついてしまうかもしれない。
「半身」スタンスで、「よそはよそ、うちはうち」と割り切って考えられれば楽なのだろう。
私はあまり他人に興味がない。
他人に期待をしていない。
自分が頑張ることでどうにかするというつもりでいるが、それでもやっぱり仕事以外の時間が大切だから、仕事に全身全霊を注ぎ込みたくない。
