歴史から学ぶインバウンド観光|戦争直前まで観光をがんばっていた話

こんにちは。近い将来、歴史に関するコミュニティをつくる歴女(仮)です。

本日は、「歴史から学ぶインバウンド観光|戦争直前まで観光をがんばっていた話」と題し、戦間期前半(第1次世界大戦後から盧溝橋事件まで)の観光について、お話します。

現在のインバウンド戦略との共通点や相違点等を考えながら読んでいただけたらおもしろいかも知れません。

あと、私は研究者ではないので、、参考までに読んでください!

●勢いよくスタートした国際観光政策

ここでは、政府主導により進められた「国際観光政策」について簡単にお話します。

まず、結論として言いたいのは、戦間期前半である、第1次世界大戦から満州事変まで「政府(鉄道省)+半官半民機関+地方の民間団体が連携し、大規模な外客誘致活動を展開していた。」ということです。

ざっくり言うと、外交、経済、文化振興の一環として観光が国家戦略に組み込まれ始めた時期なのです。

では、なぜ突如として「国際観光」が意識され始めたのでしょうか。

背景
・戦間期に差し掛かる、1920年代後半から、世界的に国際連絡運輸網(鉄道・船舶・航空など)が整備され、各国が観光政策に力を入れていた。
・日本でも欧州と一枚の切符でつながるようになり、欧米からの観光客誘致が注目された。
ワシントン体制により日米関係が一時的に安定したこともあり、アメリカからの団体旅行客増加も期待された。

↑このような社会的な背景があり、政府は下記のような動きをしていきます。

政府の動き
国際収支改善のための外貨獲得の手段として国際観光事業に注目。
・1927年、高久甚之助(鉄道省の官僚)がアメリカ出張で観光政策の必要性を痛感。
後任の新井莞爾も欧米視察で同様の認識を持ち、政策化を推進。
→キーパーソンの八田嘉明(鉄道次官・ジャパン・ツーリスト・ビューロー会長・貴族院議員)を説得し、1930年に「国際観光局」が鉄道省の外局として設置される。
さらに、「国際観光委員会」や「国際観光協会」も創設され、官民一体での外客誘致が本格化。


当時、恐慌や軍備、貿易摩擦等によって、日本は深刻な外貨不足となっていたこともあり、社会情勢を鑑みて「インバウンド観光」に着目したわけです。

政府全体としてなんとなく良さそうと意識されてはいましたが、それよりもそれを推し進めた一部の要人たちの熱心な説得によって実現されていった、という形です。

民間においても、1930年前後、各地で観光協会が活発に設立され、イベントなどを通じて外国人観光客誘致を実施していました。(民間とはいえ、政府のなんらかの働きかけがあった可能性が高いです)


例:近畿観光協会(1929年設立)は、京都を中心に活動し、土産物の刷新や輸出工芸品展覧会などを開催。
まとめ:

この時期の国際観光は、政府(鉄道省)+半官半民機関+地方の民間団体が連携し、大規模な外客誘致活動を展開していた。
外交、経済、文化振興の一環として観光が国家戦略に組み込まれ始めた時期である。

●満州事変後の国際観光

次に、戦間期後半として、満州事変後に国際観光はどのように変わっていったのかをまとめたいと思います。

・満洲事変(1931)後も国際観光政策は継続されており、国際観光局主導で招請旅行(外国人を招く旅行)の企画などが行われた。
→しかし、国際情勢の緊迫化により、外客誘致の対象が変化。特に、日本の国策(満洲問題など)に理解を示す外国人観光客に限定されていく。
日本・中華民国・満洲など東アジア諸国間の観光連携を推進するため、「東洋観光会議」が東京で開催された。
→「東洋観光券」や「連絡運輸」の発行を議論。


このように、この時期、外貨獲得よりも、近隣諸国との親善・政治的連携の手段としての観光が強調されていったのです。

つまり、前半は経済面から国際観光が政策化されていったが、後半になると、社会情勢の変化により、国際観光が外交的ツールとして使われるようになったのです。

戦時色が強まってくると、国際観光は縮小・制限されていくのですが、、、(それもギリギリというか戦時下)国内観光は健康志向・ナショナリズム的傾向を強めていきます。

この時期の国内観光については、また今度、まとめていこうと思います!

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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