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兄ちゃんと川へ

「明日、退院してもいいって言われた」


兄ちゃんは読んでいた本を閉じると、
そう言った。


「本当?」

思わず大きな声が出た。

兄ちゃんは長いこと、肺結核で入院している。


幼い頃、この時期になると二人で川へ行った。

ズボンの裾をまくり、
石をひっくり返してはザリガニを捕まえた。


「兄ちゃん、また一緒に川へ行けるね」

嬉しくて、泣きそうになった。

「そうだね。また行こうね」

青白く細い兄ちゃんの手が、
僕の頭をそっと撫でた。

泣いているところを見られたくなくて、
僕は病室を飛び出した。

庭へ出ると、溢れる涙を両手で何度も拭った。

「やっと兄ちゃんが帰って来るんだ」

嬉しかった。

本当に、嬉しかった。


しばらくして病室へ戻ろうとした時、廊下の向こうから先生と看護婦さんの話し声が聞こえた。

「三号病室の患者さん、よく承知してくれたね」


「はい。
負傷兵のためにベッドを空けてほしいとお願いしたら、分かってくださいました」


「……そうか」

先生は小さく息を吐いた。

「まあ、最期は自宅で迎えるのもいいだろうから……」

足が止まった。


――兄ちゃんは、

病気が治ったから退院するんじゃない――


病室の扉をそっと開けた。

兄ちゃんは、さっきと同じように本を読んでいた。

僕は何も言えなかった。

「どうした?」

兄ちゃんが笑った。

「……なんでもない」


それだけ言って、僕は家へ帰った。


その夜。

けたたましい警報が町中に鳴り響いた。

「空襲だ!」

僕たちは急いで防空頭巾を被った。

母は妹の静子を抱き、
僕の手を握って走った。

外には大勢の人が飛び出していた。

皆、防空壕へ向かっている。


大きな荷物を抱えたお婆さんが、
僕たちの前を走っていた。

その時だった。

お婆さんが足を滑らせた。

「……あっ」

振り返った、その向こう。

焼夷弾が落ちた。

轟音とともに火の粉が舞い、
屋根が崩れ落ちる。

お婆さんの姿が消えた。

僕は立ち尽くした。

「何ぼさっとしとる! さぁ、はよ走り!」

母が僕の手を強く引いた。

頭上では、B-29の爆音が雷のように鳴り響いている。

ようやく防空壕へ辿り着いた。


「皆んな! 入ったか!」

上田班長の声が響く。


僕は辺りを見回した。

皆、膝を抱えて座っている。

誰も喋らない。

静子は怖がって泣いていた。

母は何度も背中をさすっている。

「……兄ちゃん、大丈夫やろか」


「……あそこは丈夫な建物やけん、
 心配いらんよ」

「うん」


やがてB-29の音は遠ざかっていった。

それでも誰も外へ出ようとはしなかった。

僕たちはその夜、防空壕で過ごした。


翌朝。
町のあちこちから煙が上がっていた。

焼けた臭いの中を、皆、
無言で家へ戻った。

「さ、ご飯の支度するけん、
 静ちゃんば見てやって!」

母はそう言うと、鍋に芋を放り込み
味噌を溶いた。

腹は減っていた。

でも、僕はほとんど喉を通らなかった。


「兄ちゃん、今日帰ってくるんやろ?」

僕が聞くと、

母は忙しそうに振り返った。

「そうよ。あとで迎えに行くよ」

母は笑った。

僕も笑った。


昼過ぎ。
僕たちは兄ちゃんを迎えに行った。

けれど――

病院は、もう病院ではなかった。

建物は半分崩れ落ち、
まだあちこちから煙が上がっていた。


母の手から荷物が落ちた。

「……嘘やろ」


次の瞬間、母は走り出した。

僕も後を追った。


「添田です!」
母が叫ぶ。

「添田和志の母です!」

誰も答えない。

「和志は……和志はどこにおるとですか!」

僕も兄ちゃんを探した。


「兄ちゃん!」


目に入るのは、黒く焦げた壁。


ひしゃげたベッド。

血だらけの人。

泣き叫ぶ人。


「兄ちゃん!」


「ここは危なか! 離れんさい!」

兵隊さんに腕を掴まれた。

僕は振りほどいた。

「兄ちゃんがおると!」

必死に奥へ進んだ。

三号病室があった場所まで来た。

何もなかった。

ベッドも

窓も

兄ちゃんも


瓦礫の中に、黒く焼けた何かが見えた。

僕はしゃがみ込んだ。


本だった。

昨日、兄ちゃんが読んでいた本。


震える手で拾い上げた。

半分ほど焼けていた。

そっと開こうとすると、ページは音もなく崩れ、
灰になって僕の手から落ちた。


「……兄ちゃん」

返事はなかった。


「今日……退院するって言ったやん」



母の泣き声が聞こえた。




「また川に行こうって……」



僕は焼けた本を胸に抱いた。




―――兄ちゃんは、その日。
帰ってこなかった。


戦争が終わって、何年か経った夏。

僕は一人で、あの川へ行った。

昔と変わらず、水は冷たかった。


ズボンの裾をまくり、石をひとつ持ち上げる。


いた。
小さなザリガニだった。

僕は捕まえて、手のひらに乗せた。

赤い鋏を振り上げている。


「兄ちゃん」

僕は笑った。

「捕まえたよ」

しばらく眺めてから、そっと水の中へ戻した。
ザリガニは石の陰へ隠れた。


川の水が、あの日と同じように流れていた。



「……また、一緒に来たね」


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