少年の夢
軍事工場で働く十七歳の少年には、
誰にも言えない秘密があった。
作家になること。
戦時中、小説を書くなど贅沢で危険な行為だった。
見つかれば「非国民」と罵られ、厳しく罰せられる。
それでも少年は夢を捨てられなかった。
昼休み。
干し芋を急いで口へ押し込むと、少年は河原へ駆け出した。
橋の下はひんやりと涼しい。
誰にも見つからないその場所で、
ノートを開く。
短くなった鉛筆が、夢中で紙の上を走る。
物語の主人公は海軍の青年だった。
真新しい軍服を身にまとい、家族へ笑顔で手を振る。
軍艦はゆっくりと港を離れ、大海原へ向かっていく。
勇敢で、誇らしく、誰もが生きて帰る物語。
少年は、その世界にすっかり引き込まれていた。
「貴様ッ!」
怒鳴り声に身体が震えた。
振り返ると、工場長が立っていた。
慌ててノートを隠したが遅かった。
首根っこを掴まれ、地面へ叩きつけられる。
「仕事もせず、小説だと!
この非国民が!」
何度も殴られた。
少年の顔は腫れ上がり、
そのまま独房へ放り込まれた。
没収されたノートは、目の前で燃やされた。
炎の中で、自分の夢が灰になっていく。
少年は涙が止まらなかった。
傷の手当てをしていた看護婦が、
そっと頭を撫でる。
「辛抱……辛抱しなさい。」
数か月後。
家に召集令状が届いた。
大学生の兄宛だった。
父は兄の肩を叩いた。
「最後まで諦めるでない。」
母は涙をこらえ、黙って荷物を整える。
「兄さん!」
少年が呼んでも、兄は振り返らなかった。
汽車は静かに動き出した。
その背中を、少年はいつまでも見送っていた。
少年は今日も工場で鉄くずを仕分ける。
油まみれになりながら働き続けた。
やがて兄の戦死公報が届く。
家族は静かに万歳をした。
「お国のために立派に務めを果たした。」
少年には、その意味が分からなかった。
泣いてはいけないのか。
悲しんではいけないのか。
胸の奥だけが痛かった。
夏。
少年は再び書き始めていた。
夜になると庭へ出る。
大きな壺を土の中へ埋め、
その中へ原稿を一枚ずつ重ねていく。
誰にも見つからないように。
最後の一枚を書き終えると、
壺へ蓋をした。
土をかぶせる。
目印に、
兄の形見の万年筆を深く突き立てた。
ある朝。
少年は家族の前で正座し、頭を下げた。
「私、特攻に志願します。」
父も母も、止めなかった。
誇らしいことだと信じていた。
七月下旬。
訓練所には、
幼さの残る少年たちが並んでいた。
誰も笑わない。
夜。
珍しく白いご飯が配られた。
誰も箸をつけられない。
やがて誰かが、小さく呟いた。
「……これを母ちゃんに食べさせたかったな。」
その言葉だけで、皆が黙り込んだ。
眠れぬ夜。
隣の寝台の青年が声をかける。
「君、いくつだ。」
「十七です。」
「そうか……俺の弟と同じ年だ。」
それ以上、言葉は続かなかった。
虫の声だけが、静かに響いていた。
翌朝。
少年は激しい腹痛に襲われた。
急性胃腸炎。
高熱と激痛で立つこともできない。
軍医は短く告げた。
「特攻は延期だ。」
そして――。
一九四五年八月六日。
午前八時十五分。
広島に、一発の原子爆弾が落とされた。
数日後。
少年は帰郷を許された。
故郷は、消えていた。
家も、道も、学校もない。
焼け焦げた大地に、
瓦礫と無数の遺体が横たわっている。
少年は自宅のあった場所へ走った。
誰もいない。
何もない。
膝をつき、夢中で庭を掘り返した。
指先が何かに触れる。
溶けて曲がった一本の万年筆。
兄の形見だった。
その下を必死で掘る。
やがて土の中から、
大きな壺が姿を現した。
震える手で蓋を開ける。
原稿は、一枚残らずそこにあった。
少年はその場に崩れ落ちた。
「……どうして……。」
家族はいない。
友もいない。
町もない。
残ったのは、自分と、
この物語だけだった。
少年は一枚目を開いた。
港から旅立つ軍艦。
家族へ手を振る若い兵士たち。
誰一人、死なない物語。
少年は原稿を胸に抱きしめた。
涙が止まらなかった。
少年は空を見上げた。
どこまでも青い空。
あの日、橋の下で書き始めた夢は、
戦争では焼けなかった。
だから生きよう。
書き続けよう。
失われた命を忘れないために。
そして……。
二度と同じ夏を繰り返さないために。
