僕がアメリカに密入国した日 ―1979― (1)「行きます」
(1)「行きます」
世間はお盆休みを迎え、ニュースは帰省や旅行で賑わう駅や空港の様子を伝えている。わたしはもうリタイアしたので、旅費も高く、どこも混み合うこの時期に旅行へ出掛けることは、幸いにも免れている。
そんなニュースを見ていて、自分が初めて海外へ出掛けた時のことを思い出した。アルバイトで貯めた金に親から援助してもらって実現した旅行だった。
昭和54年12月、20歳だった。
もちろん当時、ネットなどは無かった。では、どうやって海外旅行の情報を得たり予約をしていたのだろう。
ちょうどその年の秋だったと記憶している。今でも発行されている、あの黄色い表紙の『地球の歩き方』が発刊された。発行元はダイヤモンド社だった。
海外旅行に興味や憧れを抱く若者は、もれなくこれを買い求め、読み漁った。
余談だが、後にバックパッカーたちのバイブルともなる沢木耕太郎氏の『深夜特急』さえ、この世に出てはいなかった。
その頃、現在のJTBは日本交通公社という社名で、旅行会社として今以上に圧倒的な存在だった。そこで海外旅行を手配することには、一種の安心感とステータスさえあったように思う。
若者やファミリー向けのリーズナブルな海外旅行商品も開発し始めていたが、それでも学生には高嶺の花だった。
そんな首都圏の若者たちが頼りにしたのが、新宿駅西口の通路に並んでいた十社を超える旅行代理店のスタンド型ブースだった。
今では見かけなくなったが、ちょうど駅の新聞スタンドを模したような造りで、夜になるとシャッターで箱全体を覆ってしまう、とても簡素なものだった。
そこへ行けば、目的地や時期、エアラインによって、さまざまな格安航空券の情報を得ることができた。
初めての海外旅行には、比較的安全で旅もしやすそうなイギリスを選んだ。約二週間をかけて、イギリスを廻ってみようという計画だった。
代理店の名前などとうに忘れたが(それくらいだから大手ではなかった)、そのスタンドブースの一社で、ロンドン往復の格安航空券と一泊目のホテルの情報を得て予約した。
出発日と帰国日だけは決まっていたが、エアラインと出発時間、つまり便名が分かるのは、出発五日前までに郵送されてくる予約票だった。
出発も迫った十一月下旬のある夕方。
自宅に代理店から電話が架かってきた。
予定のロンドン行がオーバーブッキングで乗れない。代替便も見つけられない。今、いろいろ手を尽くしているが、最悪の場合は諦めてもらうしかないという。
団体向けの安いチケットをばら売りしているので、こういうこともあるのだそうだ。その頃はまだブッキングクラスなどということは知らなかった。
また明日連絡するが、その前にひとつ確認したいと言う。
「アメリカのビザはお持ちですか」
「初めての海外ですよ。持っているわけないでしょう」
少し怒気を込めて答えると、
「そうですよね」
と落胆したように電話は切れた。
現在はESTAという電子渡航認証が必要だが、当時、アメリカへの観光入国にはビザが必要だった。
翌日、じりじりする思いで電話を待っていると、夜八時過ぎになってようやく電話が架かってきた。
代理店の提案はこうだった。
パンナムのサンフランシスコ行が取れた。そこからニューヨークを経由してロンドンへ向かう便も手配できる。ただし、これを選ぶかどうかは次の話を聞いてから決めてほしい、とのことだった。
アメリカ経由乗り継ぎで他国へ行く場合、アメリカの最初の到着地で入国する必要がある。昨日のビザの確認はこのためだった。しかし、自分はビザを持っていない。
担当者は言った。
「サンフランシスコ空港で飛行機を降りたら、毛利さんの名前を書いたサインボードを持った人が待っています。とにかくその人の指示通りに動いてください。不安になるかもしれませんが、その指示さえ守ってもらえれば大丈夫です。もう迷っている時間はありません。今この電話で、行くか止めるか決めてください」
もちろん今の自分なら、リスクも考えて断るだろう。
だが二十歳の僕には、海外に行けるか、行けないか。それしかなかった。
親に相談することもなく、
「行きます」
と答えていた。
つづく
