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エッセイ『目的が多すぎるという不幸』

今日、YouTubeでタンザニアのハッザ族という狩猟民族の動画を見た。
乾いた大地の色と、焚き火の煙。裸足で歩く足の裏と、笑い声。画面越しなのに、空気の温度まで伝わってくるようだった。

印象的な言葉があった。
若いハッザ族の少年に「生きる目的は?」と聞くと、迷いなく「食べるためだ」と答えていた。

あまりにも真っ直ぐで、少しだけ拍子抜けするほどだった。
だが、その言葉は妙に引っかかった。

羨ましい、と思った。

物の豊かさはない。電気も、水道も、もちろんスマートフォンもない。
だが、彼らの笑顔を見ていると、こちらの方が何かを持ちすぎている気がしてくる。

「悩み事はある?」という問いにも、彼は即答していた。
「ない」と。

生きることそのものが日々の中心にある彼らにとって、「悩む」という行為は、もしかすると後回しにされる贅沢なのかもしれない。
明日の食べ物を確保する。それだけで一日が終わる。

だが、画面の中の彼らは、確かに楽しそうだった。
誰かが笑えば、周りも笑う。理由などなくても、そこには確かに「満ちている何か」があった。

私達は、便利さと引き換えに、人間としての本質をどこかに置いてきてしまったのではないか。
そんな考えが、頭の奥にゆっくりと沈んでいく。

あんな風に、心の感じるままに生きてみたい。

だが、文明の発達した日本で、それは可能なのだろうか。

仕事を辞めて山にこもる?
スマホを捨てる?
がむしゃらに働くのも違う気がするし、自分なりの哲学を追求するのも、どこか遠回りな気がする。

むしろ、知識が増えれば増えるほど、動けなくなっている気さえする。
「どう生きるべきか」を知りすぎて、「どう生きるか」がわからなくなる。

だが、完全に失われたわけではないとも思う。

例えば、ふとした瞬間に風を感じるとき。
夜道で、誰もいない信号を待っているとき。
意味もなく、ただ空を見上げるとき。

そういう時、ほんの少しだけ、頭の中が静かになる。
あの少年の言葉に近い場所に、触れている気がする。

お金は必要だ。
いい生活もしたい。

だが、それを追い求め続けた先に、心の豊かさがあるとは限らない。
むしろ、遠ざかることもある。

では、この矛盾をどうすればいいのか。

少し考えてみて、ひとつの仮説にたどり着いた。

「全部を手に入れようとするから、苦しくなるのではないか」

ハッザ族の少年は、「食べる」という目的に絞っている。
だから迷わない。

一方で私達は、
お金も、評価も、自由も、安心も、楽しさも、すべて同時に求めている。

それは、目的が無限に増えている状態だ。

だから、ひとつ試してみることにする。

明日は、「気持ちよく終わる一日」にだけ集中してみる。
仕事がうまくいくかどうかではなく、
評価されるかどうかでもなく、
ただ「気持ちよく終われるか」。

それだけを、目的にする。

もしそれで少しでも心が軽くなるなら、
それはきっと、あの少年の「食べる」に近い何かだ。

文明の中で生きながら、
ほんの少しだけ、心に従う。

そのくらいが、今の自分にはちょうどいいのかもしれない。

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