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――必要とされない時間にも、ちゃんと意味があった。

町の片隅に、小さな図書館があります。大きな建物ではありません。 入口のガラス戸は少し古く、開けるたびに、からん、と小さな音を立てます。


中に入ると、紙と木の匂い。新しい本の匂い。古い本の匂い。誰かが静かにページをめくる音。


その入口のすぐそばに、ひとつの古い傘立てがあります。銀色の細い棒を組み合わせた、どこにでもありそうな傘立て。特別おしゃれでもなく、新しいわけでもなく、誰かが立ち止まって眺めるようなものでもありません。


けれど雨の日になると、その傘立ては少しだけ忙しくなります。


「ちょっと置かせてね」


そう言って、人々は濡れた傘を差し込んでいきます。黒い傘。紺色の傘。透明なビニール傘。子ども用の黄色い傘。


傘立ては、一本一本を静かに受け止めます。傘の先から、雨粒がぽたり、ぽたりと落ちて、足元には小さな水たまり。それでも傘立ては、黙ってそこに立っています。濡れた傘を受け止めること。持ち主が帰るまで、倒れないように支えること。それが、自分の役目なのだと思っていました。


――


晴れた日になると、図書館の入口は静かです。 本を返しに来る人。新聞を読みに来る人。小さな子どもの手を引いて入っていく人。


みんな、傘立ての前を通り過ぎていきます。本棚のほうへ。カウンターのほうへ。お気に入りの席のほうへ。


誰も、傘立てを見ません。そこにいるのに、いないもののように。


傘立ては、少しだけ寂しくなります。雨の日には、あんなに手が伸びてくるのに。晴れた日には、誰も振り向かない。


私は、雨の日にしか必要とされないのだろうか。


そんなことを、何度も考えるようになりました。


――


ある雨の日。朝から空は暗く、図書館の入口には、湿った風が流れ込んでいました。


その日、一本の傘が置かれます。深い緑色の傘。 新しい傘ではありません。けれど、粗末に使われてきたものでもありません。持ち手には、小さな傷がいくつもありました。傘の端は、少しだけ色あせていました。長いあいだ、誰かの手に大切に握られてきたことを、傘立てはなんとなく感じます。


その日も、図書館にはたくさんの人が来ました。雨の音を聞きながら本を読む人。借りていた本を返す人。子どもに絵本を読んであげる人。


夕方になると、ひとり、またひとりと帰っていきます。黒い傘も。透明な傘も。子ども用の黄色い傘も。それぞれの持ち主の手に戻っていきました。


けれど、深い緑色の傘だけは、傘立ての中に残ります


きっと、明日には取りに来るだろう。傘立ては、そう思いました。


けれど、翌日も、その次の日も、緑色の傘の持ち主は現れません。


雨は上がり、空は明るくなります。図書館には、いつものように人が来ます。本を借りる人。静かに勉強する人。新聞を広げる人。それでも、誰も緑色の傘には気づきません。


傘立ての中に、一本だけ残された傘。それは、少し寂しそうに見えました。


傘立ては、その傘をそっと支えます。倒れないように。奥に押し込まれないように。誰かに乱暴に扱われないように。


自分には手も足もありません。声をかけることもできません。それでも、できることはありました。


そこに立ち続けること。その傘を、預かっておくこと。


――


季節が少しずつ変わります。雨の多い日が過ぎ、強い日差しの日が増えていきます。図書館の入口に傘を置く人も減り、傘立ては、ますます誰にも見られなくなりました。


それでも、緑色の傘はそこにあります。少しほこりをかぶりながら、静かに立っています。


傘立ては、いつの間にか、その傘のことを気にかけるようになっていました。 誰かが勢いよく傘を差し込むと、緑色の傘にぶつからないか心配になります。子どもが入口ではしゃいでいると、傘立てごと倒れてしまわないか、不安になります。掃除の人が入口を片づけに来るたび、この傘が忘れ物として処分されてしまわないか、胸の奥がざわつきます。


傘立てには、胸などないはずなのに。それでも確かに、何かがざわつくのです。


ある晴れた午後。図書館の人が、傘立ての前で足を止めました。


「この傘、ずいぶん前からありますね」


その声に、傘立てはどきりとします。


「忘れ物かな。もう処分してもいいかもしれませんね」


図書館の人は、緑色の傘にそっと手を伸ばします。傘立ては、何も言えません。


やめてください。もう少しだけ待ってください。この傘には、きっと戻ってくる人がいます。


そう伝えたいのに、声は出ません。手も伸ばせません。ただ、そこに立っていることしかできません。


図書館の人は、少し考えたあと、緑色の傘を元の場所に戻しました。


「次の雨の日まで、置いておきましょうか」


傘立ては、ほっとします。自分にできたことは、何もなかったのかもしれません。それでも、緑色の傘は、まだそこにありました。


――


それから、また雨の日が来ます。朝から細かな雨。図書館の入口には、傘を閉じる音が何度も響きます。ぱさり。しずくが落ちる音。ガラス戸が開く音。本の匂いに混じる、雨の匂い。


傘立ては、久しぶりに忙しくなりました。濡れた傘が何本も差し込まれます。その中で、緑色の傘は、静かに立っていました。まるで、誰かを待っているように。



夕方になっても、雨はやみません。図書館の入口のガラス戸が、からん、と音を立てて開きました。


入ってきたのは、ひとりの男性です。少し年配の男性でした。髪には白いものが混じり、手には折りたたみ傘を持っています。


男性は、入口でふと足を止めました。そして、傘立ての中をじっと見ます。


「あ……」


小さな声。男性は、ゆっくりと手を伸ばしました。その手が触れたのは、深い緑色の傘です。


「まだ、ここにあったんだ」


その言葉を聞いた瞬間、傘立ては、長い時間が静かにほどけていくような気がしました。


男性は、緑色の傘の持ち手をそっと撫でます。


「父の傘だったんです」


誰に言うでもなく、男性はそうつぶやきました。


「ここに来た日に、置いたままにしてしまって……。もう、なくなっていると思っていました」


男性は少し笑います。けれど、その目は少しだけ濡れていました。雨のせいではありません。


緑色の傘は、ゆっくりと傘立てから抜かれていきます。何年もそこにあった重みが、ふっと軽くなりました。傘立ての中に、少しだけ空白ができます。


寂しいはずなのに、不思議と悲しくはありません。むしろ、少し誇らしい気持ちでした。


自分は、ただ忘れられていたのではない。雨の日だけ使われるものでもない。

誰かが取りに来るその日まで、忘れられた傘を、そっと守っていたのです


晴れた日も。誰にも見向きもされない日も。何も起きないように見える日も。 その時間は、空っぽではありませんでした。

待つための時間でした。守るための時間でした。


男性は、緑色の傘を大切そうに抱えて、図書館を出ていきます。


外では、まだ雨が降っています。
古い傘立ては、また入口の片隅に立っています。


本を返しに来る人は、返却ポストへ。本を借りに来る人は、本棚へ。子どもたちは、絵本のコーナーへ。傘立ての前を通り過ぎても、誰もこちらを見ません。


けれど、傘立てはもう、前ほど寂しくありませんでした。雨の日だけ必要とされることにも、晴れの日に忘れられることにも、少しだけ意味を見つけられた気がします。


やがて、また一本、濡れた傘が差し込まれました。傘立ては、静かにそれを受け止めます。倒れないように。傷つかないように。


持ち主が戻ってくるその時まで。


私は、忘れられていたのではない。ここで、誰かを待っていたのだ。



必要とされない時間にも、ちゃんと意味があった。


■ このショート・ショートが伝えたいこと

この物語は、「誰かに必要とされていない」と感じる時間にも、ちゃんと意味があるのではないか、というお話です。

人は、いつも誰かに声をかけられたり、頼られたり、注目されたりしているわけではありません。ときには、忘れられたように感じる日もあります。自分の役割が見えなくなる日もあります。

でも、そんな時間の中にも、誰かをそっと支えていたり、何かを守っていたり、いつか来る日のために、静かに待っている意味があるのかもしれません。

傘立ては、目立つ存在ではありません。けれど、忘れられた傘を守り続けていました。


必要とされないように見える時間も、本当は空っぽではない。 そんなことを、この小さな傘立てに込めました。

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