――私は家族に、何を残すのだろう。
昔、父がよく言っていた。
「お金がなくても、写真は撮っておきなさい」
子どもの頃の私は、
その意味がよく分からなかった。
写真を撮ることが、
そんなに大事なことなのだろうか。
食べ物を買うお金。
服を買うお金。
生活に必要なお金。
そういうものに比べたら、
写真なんて、少し贅沢なもののようにも思えた。
でも父は、
何度も同じことを言っていた。
「お金がなくても、写真は撮っておきなさい」
今とは違って、
昔は気軽に写真を撮れる時代ではなかった。
スマホもない。
デジカメもない。
動画を何本も残せるような時代でもない。
写真を撮るには、
フィルムが必要だった。
撮った写真を見るには、
現像に出さなければならなかった。
一枚一枚に、
お金も、手間も、少しの覚悟も必要だった。
だから、写真を撮るということは、
ただシャッターを押すことではなかった。
それはきっと、
「この瞬間を残す」と決めることだった。
父は、何を残したかったのだろう。
旅行先の景色だろうか。
家族で並んだ記念写真だろうか。
誕生日のケーキだろうか。
少し緊張した入学式の朝だろうか。
たぶん、どれも正解で、
どれも少し違う。
父が本当に残したかったのは、
写真そのものではなかったのかもしれない。
その時、そこに、
確かに家族がいたこと。
笑っていたこと。
若かったこと。
不器用でも、毎日を生きていたこと。
そんな、あとからでは取り戻せない時間を、
父は残しておきたかったのかもしれない。

若い頃の私は、
残すものといえば、
もっと立派なものだと思っていた。
仕事の成果。
肩書き。
お金。
誰かに認められる実績。
もちろん、
それらも大切なものだと思う。
生きていくにはお金も必要だし、
頑張ってきた証も、
簡単に否定できるものではない。
けれど、年齢を重ねるほどに、
少しずつ思うようになった。
最後に残るものは、
案外、そんなに大きなものではないのかもしれない。
あの日、何気なく撮った一枚。
母が少し若く見える写真。
父が照れくさそうに笑っている写真。
自分がまだ子どもで、
何を考えていたのかも思い出せないような写真。
そこに写っているのは、
特別な日ばかりではない。
どこにでもあるような部屋。
少し古い家具。
季節外れの服。
今見ると笑ってしまう髪型。
でも、そこには確かに、
もう戻れない時間が写っている。
今は、何でも残せる時代になった。
スマホで写真を撮る。
動画を撮る。
SNSに投稿する。
クラウドに保存する。
残す手段は、
昔よりもずっと増えた。
けれど、そのぶん、
何を残したいのかが、
少し見えにくくなった気もする。
たくさん撮れる。
たくさん保存できる。
たくさん並べられる。
でも本当に残したいものは、
その中のどれなのだろう。
父は、写真を残せと言った。
では、私は家族に何を残すのだろう。
お金だろうか。
物だろうか。
写真だろうか。
スマホの中の動画だろうか。
それとも、
こうして書いている言葉なのだろうか。
いつか私がいなくなったあと、
家族がふと何かを読み返して、
「ああ、こんなことを考えていたんだな」
と、少しだけ笑ってくれたら。
それだけでも、
残した意味はあるのかもしれない。
たぶん私は今、
写真の代わりに、言葉を撮っている。
あの日の父の声を。
若かった母の横顔を。
子どもだった自分の、少し照れた顔を。
そして、
今ここで生きている自分の気持ちを。
立派なことは残せないかもしれない。
大きな財産も残せないかもしれない。
それでも、
家族を大切に思っていたこと。
何気ない日々を、ちゃんと愛おしいと思っていたこと。
不器用なりに、人生を歩いてきたこと。
それくらいは、
どこかに残しておきたい。
あの日の笑顔。
若かった母の横顔。
子どもだった私の、少し照れた顔。
お金がなくても、写真は撮っておきなさい。
その言葉の意味を、
私は今ごろになって、
やっと現像している。
父が残してくれたのは、
写真だけではなかった。
「残しておきなさい」という、
静かな願いだった。
だから私は今日も、
何かを残そうとしている。
誰かに誇るためではなく、
いつか誰かが、
少しだけ温かく思い出せるように。
そして、
未来の家族がふと立ち止まったとき、
そこに小さな灯りが残っているように。
最後に選ぶものは、
大きなものではないのかもしれない。
ただ、
忘れたくないと思えたもの。
そして、
誰かに残したいと思えたもの。
私はそれを、
今日も言葉にしている。

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