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感情は愚かか? ― 三島由紀夫「酸模」

「酸模」は、三島由紀夫が13歳の時に書いた作品らしい。
これを13歳で書いたとは、あまりの早熟ぶりに改めて驚いた。

丘にある灰色の建物、刑務所の見える町に暮らす、秋彦という少年がいる。
ある時、その刑務所から脱獄囚が出たというニュースがあり、それ以来秋彦は親から、丘で遊ぶ事を禁じられた。

秋彦が森の中で迷子になった時、その脱獄囚の男と遭遇する。
「刑務所から出ないでほしい、自分が丘で遊べなくなるから」と、秋彦は男に懇願した。
男はそれを受け入れ、刑務所に戻ると二度と脱獄する事無く、刑期を全うした。

ここでテーマになっているのは、おそらく感情と合理性(理性と呼ばれているもの)だろうと思う。
現代でも、感情的になる事、何某かに感情的な要素を入れる事を軽んじる傾向は、決して少なくない。

脱獄した男もまた、自分が感情的になる事について「女の様な弱さ」と捉えており、それを長く恥じていたと告白している。
彼だけでなく、感情的=女性的なもの=劣ったもの、愚かしい事、という構図は、現代でも根強く偏見として残っている。

しかし男は、その自分が恥じていた「感情的」なものの中にこそ、真の幸福があるのだと、秋彦との遭遇でそれを知ったと言う。そして彼は真に更生する事ができた。

つまり三島はこの時期、非合理的な感情に殉じる事に美を感じたと思われる。
同じ「感情的」であっても、単純に感情に流されるのではなく、合理的な行動によって得られるものを失う、そんなある種の覚悟がある姿勢、感情に「殉じる」姿を美しいと考えたのではないか、と思う。

男は感情に殉じる覚悟をし、刑務所へ戻り更生した。刑を受けるという形の、ペナルティを引き受ける覚悟を決めたと言える。
そしてこれは後に描かれた「獣の戯れ」の、優子や幸二の姿最後が美しく描かれた内容にも、通じているような気がする。

そして、感情を殺し、合理性に従う事を醜いとする美学は「青の時代」の主人公が合理性を重視し、高利貸し屋になり破滅する姿に通じている。


最後の場面で、大人になった秋彦が故郷に帰って来ているのだが、子供の頃に遭遇した男の事は、すっかり忘れている。
そして刑務所の塀に、ひっそりと男の墓標が佇んでいる。

男は偉業と呼ばれるような、後世に名を遺すような存在とはならなかった。
秋彦の記憶にも、そしておそらく誰の記憶にも残らぬ存在として、孤独に生涯を全うしたと、そう描かれたのだろう。
しかしそれでも、それ故に美しいのだ、とそう著者は言いたかったのではないかと思う。
英雄にならず、誰の記憶にも残らず、感情に殉じひっそりと消えた姿に、美はあるのだと。


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