自由に生きるということ
長年付き合って来ている友人や知人に会うと、はやさんは自由でいいねと言われることがある。
好き勝手に生きているように見えるのだろうか?
もしくは、突然会社を辞めて屋久島に住んだり、知らぬ間に大学院で教えたり、よく旅に出たりとしていることをさしてのことだろうか?
そこで、あらためて自由とは何かを考えてみたい。
普通、自由というと好きなことを好きにやれることをイメージし、場合によっては法を超えてアウトローであったり、ヒッピーや不良をイメージするのではないだろうか?
自由とは、僕は冬よりなぜか夏をイメージしてしまう。開放的に、そして活動的になるからかも知れないが、昨今の猛暑、酷暑では、蚊が葉っぱの裏でじっとしているように、海の家が暑すぎて閑散としてしまうように、夏が活動的とは言えなくなっているのかも知れない。
さて、自由ということは、何よりも自らの意思で動くことができる必要があり健康でなくてはならない。それ以上に大切なのは、自分の時間を自分の意思で使うことができるかである。
働いていると、例えばほとんど仕事が無い日でも、会社に行って9時から5時まで拘束されてしまう。自分の貴重な時間を自分の意思で使うことができないのだ。
要は、二度と取り戻せずどんなにお金を積んでも買うことのできない貴重な自分の時間を売ってお金を得ていることに他ならない。
そこで、自分の意思で自分の時間を使える人は自由に見えるのであろう。
そもそも、自由ということは、自ら由し(よし)とするということであろう。自分が正しいと思う道を歩むということであり、やりたいことをやるということとは違うように思える。
顔をあげて、本当に正しいと思える道を自分の意思で見極めて、前を向いて歩く。周囲の反対に対しても、進んでいく覚悟をもって生きるというものでは無いだろうか?
そのためには、自らを律して、学び、考えて、高い視座と広い視野を持ち行き着いた視点をもとに覚悟を決めて進むということに他ならない。
とはいえ、そんな鯱鉾張る必要もなく、肩の力を抜き自然体で飄々と生きることができるようになると、それは生きることの名人なのかも知れない。
飄々と生きるとは難しいものだ。足るを知りながらも欲に逆らわず、自分の足で進む。
外から見たら、ふらふら遊んでばかりに見える風来坊に見えるかも知れないが、でもそんな自由な生き方をしたいものだと夏の日に思うのである。
みもりるうん
