狼爺ちゃん 壁に塗り込まれた想い
なんてこったい。
東京へ来てからというもの、ろくな目に遭ってねえ。
来る日も来る日も、妙なことに足を突っ込んじまう。
東京って街がそうなのか、オラとの相性が悪いのか。
一体どっちなんでえ。
今日は誰にも会わず、のんびり郊外を歩こう。
そう思っていたんだがな。
ドドドドドドドド——。
地面の下から、妙な音が響いてきた。
初めは雷かと思った。
だが、空は晴れている。
音はだんだん大きくなり、木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立った。
山道の向こうから、巨大な何かが突進してくる。
壁だった。
手もねえ。
首もねえ。
だが、短くて太い二本の足を、ものすげえ勢いで動かしている。
ぬりかべだ。
「おい! 止まれ!」
ぬりかべは止まらない。
杉の木をへし折り、岩を弾き飛ばし、こっちへ向かってくる。
しょうがねえ。
オラは道の真ん中に立ち、両足を踏ん張った。
「止まれっつってんだろ!」
次の瞬間。
ドン。
オラの体は空高く舞い上がった。
鳥が驚いて逃げていく。
「おう。邪魔したな」
空中で鳥に謝り、そのまま杉の木へ突っ込んだ。
枝が折れ、葉っぱが頭に降りかかる。
まったく。
壁にぶつかって空を飛ぶ狼なんざ、三百四十年生きてきて初めてだ。
オラは地面へ飛び降り、もう一度ぬりかべを追った。
「待ちやがれ!」
ぬりかべの前へ回り込み、今度は四つ足になって飛びかかった。
ドン。
また飛ばされた。
それでも追いつき、飛びかかる。
ドン。
もう一度。
ドン。
五度目に立ちはだかったとき、ぬりかべがようやく止まった。
壁の真ん中にある二つの目が、ぎろりとオラを睨む。
「いい加減にしろ」
地面の底から響くような声だった。
「そりゃあ、こっちの台詞だ。木は倒す、人は弾き飛ばす。どこへ行く気だ」
「どけ」
「嫌だね」
ぬりかべが一歩踏み出した。
オラも牙をむいた。
そのとき、頭の上から声がした。
「二人とも、やめなさい」
木の枝に、化け猫が座っていた。
例のパン屋の招き猫だった化け猫だ。
ふん。やっぱり成仏してなかったのか。
「狼。こいつ、ただ暴れてるんじゃないよ」
「じゃあ、なんでオラを五回も飛ばした」
「四回だ」
「五回だ!」
「どっちでもいいよ」
化け猫は地面へ下りると、ぬりかべを見上げた。
「ずいぶん焦ってるね。何があった」
ぬりかべは答えない。
だが、その体からは、濡れた土の臭いがしていた。
土だけじゃねえ。
汗。
飯を炊く煙。
赤ん坊の乳の臭い。
雨の日に干された洗濯物。
それから、長い年月を一緒に過ごした人間たちの臭い。
どれも古い。
それなのに、壁の奥には、まだ温かく残っている。
「お前、ただの壁じゃねえな」
ぬりかべの目が、ほんの少し動いた。
「……家だった」
こいつは昔、一軒の小さな家の壁だった。
その家を建てたのは、まだ若かった夫だった。
金がなかったので、大工に頼むこともできず、自
分で木を切り、柱を立て、屋根を葺いた。
木と壁土を求め、村人もめったに近づかない奥山
へ、深く分け入った。
そこが御山さまの領分だとは、夫は知らなかった。
山のものを無断で持ち出した人間を咎めようと、
御山さまは夫のあとを追った。
そこで見たのは、泥だらけになって働く男と、
その隣で楽しそうに土をこねる妻だった。
「苦労をかけて、すまんな」
夫が言うと、妻は笑った。
「誰の家を造ってると思ってるの。私の家でもあるのよ」
御山さまは、しばらく二人を見ていた。
やがて踵を返し、山へ戻りながら、ひとこと呟いた。
「山のものは、何ひとつ忘れぬ」
壁は少し曲がり、床は歩くたびに音を立てた。
それでも妻は、新しい壁を撫でて言った。
「この壁があれば、雨が降っても、風が吹いても安心ね」
夫婦には子どもが生まれた。
笑い声も、泣き声も、夫婦喧嘩も、家の壁はすべて聞いていた。
暮らしは楽じゃなかった。
夫は食うものも食わず、昼も夜も働いた。
子どもが熱を出した夜には、妻が一晩中抱いていた。
仕事がなくなった冬には、家族三人で一つの鍋を囲んだ。
それでも、その家にはいつも誰かの笑い声があった。
長い年月が過ぎ、子どもは大人になった。
ようやく暮らしが楽になった頃、夫は認知症を患った。
帰る道が分からなくなり、息子の名前を忘れ、やがて妻の顔も分からなくなった。
土地開発の波が押し寄せたのは、その頃だった。
夫の介護にかかる金も必要だった。
家族は悩んだ末、土地と家を手放した。
家が取り壊される日、夫婦と息子は道の向こうに立っていた。
柱が倒れた。
屋根が砕けた。
夫が自分の手で塗った壁も、重たい機械に壊されていった。
妻は声を殺して泣いていた。
息子も顔を背けていた。
夫だけは、何が起きているのか分からないような顔で、それを見ていた。
やがて、小さく尋ねた。
「なあ。俺の家は、どこへいっちまったんだ」
妻は答えられなかった。
その夜。
月明かりの下で、地面が鳴った。
砕かれた壁の破片が、一つ、また一つと動き始めた。
土に染み込んでいた家族の想いが、霊山の力に呼び起こされたのだ。
破片は集まり、大きな一枚の壁になった。
ぬりかべになった。
ぬりかべは低い声でうめいた。
泣いていた。
そして月夜の下を歩き、故郷の山へ帰っていった。
息子は結婚し、新しい家を構えた。
夫は施設へ入り、妻は小さなアパートで一人暮らしをしながら、毎日のように夫のもとへ通った。
ぬりかべは山の頂から、ずっとその様子を懐かしそうに眺めていた。
あの家族が幸せならば、それでいいと思っていた。
ある日、妻がリンゴを持って夫を訪ねた。
「今日は具合、どう?」
夫は妻を見て、丁寧に頭を下げた。
「どちらさんですか」
妻は一瞬だけ黙った。
それから、いつものように笑った。
「近所のおばあさんですよ」
「そうですか。それはどうも」
妻は夫の隣に座り、リンゴをむき始めた。
しばらくすると、夫がその手を見つめた。
「その手、どうした」
妻の指には、長年の水仕事でできたひびが残っていた。
「昔から、こんな手よ」
夫は首を傾げ、それから遠い場所を見るような目をした。
「俺の女房もな、手が荒れてた」
妻の手が止まった。
「家なんか自分で建てると言い出したもんだから、土までこねさせちまった」
「奥さん、嫌がってた?」
「いや」
夫は少し笑った。
「あいつは、よく笑ってた」
妻は、むきかけのリンゴへ目を落とした。
「でもな。俺はいつか、楽をさせてやるって約束したんだ」
夫の笑顔が消えた。
「とうとう、できなかった」
妻は唇を噛んだ。
違う。
苦労なんかじゃなかった。
雨の日に、あなたが直した屋根から水が漏れて、二人で鍋を持って走り回ったこと。
子どもの背丈を、壁に一本ずつ刻んだこと。
冷たい冬の日、小さな炬燵に入って、家族で笑ったこと。
あの家で過ごした時間は、全部、幸せだった。
そう伝えたかった。
けれど今の夫に言っても、見知らぬ女の慰めにしかならない。
「きっと奥さん、幸せだったと思いますよ」
夫は不思議そうに妻を見た。
「どうして、あんたに分かる」
妻は唇を噛んだ。
何も言わず、夫の前に切ったリンゴを置いた。
妻が施設から帰った翌日、一人の男から電話がかかってきた。
男は医療関係者を名乗った。
認知症の記憶を取り戻す、新しい治療法がある。
まだ一般には知られていないが、今すぐ費用を払えば、ご主人を治療に参加させられる。
もう一度、妻の顔を思い出せるかもしれない。
もう一度、名前を呼んでもらえるかもしれない。
妻は迷った。
夫と二人で、何十年もかけて貯めた金だった。
老後を支える、なけなしの金でもあった。
だが妻には、どうしても夫に伝えたい言葉が残っていた。
あなたと暮らせて、幸せだった。
一度でいい。
自分が妻だと分かっている夫に、そう伝えたかった。
妻は銀行へ向かった。
その様子を、ぬりかべは山の頂から見ていた。
ぬりかべは立ち上がった。
「行かなきゃ。かあさんのところに」
後ろから肩をつかまれた。
御山さまだった。
「今行けば、もうここへは帰って来られぬ。里で塵に還るぞ」
「それでも行くのか」
「行く」
ぬりかべは、もう一度、街の方を見た。
「俺は守らなければならない。何がなんでも」
御山さまの手を振り切り、ぬりかべは山を駆け下りた。
止める者などいなかった。
木々をなぎ倒し、岩を弾き飛ばし、真っすぐ妻のもとを目指した。
そして、その途中でオラを五回も吹き飛ばした。
「四回だ」
ぬりかべが言った。
「今はどうでもいい!」
事情を聞き終えたオラは、ぬりかべを睨んだ。
「それで、お前がこの調子で街へ突っ込む気か」
「間に合わない」
「お前じゃ間に合わねえ。場所を教えろ」
ぬりかべが街のある方角を指した。
映像が頭に浮かんだ。
「よし。そんなことなら、オラが行く」
速さでオラに敵うものはいねえ。
四つ足で地面を蹴った。
景色が後ろへ流れる。
林を抜け、川を飛び越え、中心街へ入った。
妻は銀行近くの駐車場にいた。
目の前には、上等な背広を着た男が立っている。
妻は両手で、小さな紙袋を抱えていた。
「こちらで、ご主人の治療手続きを進めます」
男は優しそうに笑い、紙袋へ手を伸ばした。
オラの鼻には分かる。
消毒薬の臭いなんかしねえ。
こいつから漂ってくるのは、嘘と欲の腐った臭いだ。
「そいつに渡すな!」
妻には、オラの声が聞こえない。
男の手が袋をつかんだ。
オラは跳んだ。
そのとき、男がこちらを見た。
「なんだ、こいつ!」
男は袋を抱え、そばに止めてあった車へ飛び乗った。
オラの牙が、車の後ろをかすめる。
車はタイヤを鳴らして走りだした。
「待ちやがれ!」
オラは追った。
横から化け猫も飛び出してきた。
「遅いよ、狼!」
「今来たやつに言われたくねえ!」
街中じゃ、車も思うようには走れねえ。
信号。
曲がり角。
行き交う人間。
並んだ車。
オラは路地を抜け、塀を飛び越え、何度も車の横へ追いついた。
化け猫が車の屋根へ飛び乗り、爪を立てた。
ガリガリガリガリ。
「うわっ!」
車が大きく蛇行する。
「化け猫! 前を見ろ!」
「運転してるのは私じゃないよ!」
男は必死になって車を走らせた。
やがて、前方に高速道路の入口が見えた。
「高速へ上がるぞ! 直線なら、あいつらでも追いつけねえ!」
車は料金所を抜け、高速道路へ入った。
そこから一気に速度を上げた。
さすがに速え。
街中なら車よりオラの方が速い。
だが、真っすぐな道を百を超える速さで走られちゃあ、分が悪い。
それでもオラは追った。
化け猫が遅れ始める。
「狼……あとは頼んだよ!」
「おう!」
足の裏が熱い。
やがて皮が裂けた。
アスファルトの上に、赤い跡が続いていく。
それでも走った。
あの袋には、夫婦が何十年もかけて貯めた時間が入っている。
腹を減らして働いた日も。
子どものために我慢した日も。
いつか妻を楽にしてやりたいと願った夫の気持ちも。
全部、あの中だ。
だが車は、少しずつ遠ざかっていった。
「くそ……」
もう届かねえ。
そう思ったときだった。
車の前方の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
何もなかったはずの道路に、巨大な壁が立っていた。
ぬりかべだ。
「うわああああ!」
男が急ブレーキを踏んだ。
タイヤが白い煙を上げる。
車は横向きに滑り、そのまま壁へ激突した。
ドーンという音が、高速道路に響いた。
車の前は潰れ、煙が上がった。
しばらくして、男が運転席から這い出してきた。
額から血を流しているが、まだ逃げる気らしい。
紙袋を抱えたまま立ち上がり、道路脇へ走ろうとした。
ぬりかべの短い足が動いた。
ドスン。
男の足を踏みつけた。
「痛え! どけ! この化け物!」
男は壁を殴った。
蹴った。
だが、ぬりかべは動かない。
オラは血の跡を引きながら、男の前まで歩いていった。
「無駄だ」
男が震えながらオラを見る。
「そいつはな、家族を守るために生まれた壁だ」
遠くから、パトカーの音が聞こえてきた。
化け猫が、ようやく追いついた。
「警察、呼んできたよ」
「遅え」
「誰のために呼んだと思ってるんだい」
「それより、オラの足を見ろ」
「自分で舐めな」
まったく。
化け猫ってやつは、もう少し仲間を労る気持ちを持てねえもんか。
男は警察に捕まり、紙袋は無事に妻へ返された。
妻は、紙袋を届けに戻ってきたオラに何度も頭を下げた。
だが、ぬりかべの姿は見えていない。
妻が礼を言っていた相手は、警察と、傷だらけのオラだけだった。
「大丈夫ですか」
「このくらい、なんともねえ」
足の裏は、ものすげえ痛かった。
数日後。
妻はまた、リンゴを持って夫の施設を訪ねた。
窓の外では、ぬりかべが立っていた。
冷たい風が窓の隙間から入らないよう、大きな体で塞いでいる。
夫が尋ねた。
「どちらさんでしたか」
妻は少し笑った。
「あなたの家で、ずっと守ってもらっていた者です」
夫は首を傾げた。
妻は黙ってリンゴをむき始めた。
しばらくして、夫がその手を取った。
皺の増えた手を、両手で包み込む。
「冷てえ手だな」
妻が顔を上げた。
夫は窓の外を見ながら言った。
「壁が乾くまで、中にいろ」
それが誰に向けた言葉なのか、オラには分からなかった。
目の前の妻なのか。
若い頃、土をこねていた妻なのか。
それとも、もうなくなった家の中で笑っていた、家族みんなになのか。
妻は夫の手を握った。
「はい」
それだけ答えた。
ぬりかべの目から、ぽろぽろと土の塊が落ちた。
「おい。泣くと崩れるぞ、壁」
「……雨漏りだ」
「今日は晴れてるぞ」
ぬりかべは何も言わなかった。
人間の頭ってやつは、厄介だ。
大切な顔も、名前も、帰る家まで忘れちまう。
だが、忘れたからといって、全部なくなるわけじゃねえのかもしれない。
手が覚えていることもある。
土が覚えている声もある。
なくなった家にしか、守れねえものもあるらしい。
しばらくして、夫がぽつりと言った。
「俺はな、女房に感謝してるんだ」
妻の手が止まった。
「日本一の嫁をもらった」
夫は窓の外を見ていた。
「俺なんかに、ずっとついてきてくれた。苦しいときでも、あいつはいつもコロコロ笑ってた」
妻は何も言わなかった。
言葉を挟んだら、その声が震えてしまいそうだった。
「俺は、あいつの笑顔があれば、ほかには何もいらねえ。あの笑顔のためなら、何だってできる」
夫はそこで妻の手を見た。
荒れて、皺の刻まれた手を、じっと見つめる。
「そういえば、女房の手も……あんたみてえに荒れて、しわくちゃだったな」
妻の目から、涙がこぼれた。
「奥さん、きっと幸せでしたよ」
「どうして、あんたに分かる」
「女同士だからですよ」
妻は涙を拭い、コロコロと笑った。
夫はその笑顔を、しばらく見つめていた。
「あんたの笑い声、俺の妻にそっくりだ。」
「あらまあ、どうしましょうねえ。」
狼と猫は顔を見合わせた。
そのとき、背後で何かが崩れる音がした。
ぱらり。
ぬりかべの体から、さらさらと土がこぼれ落ちていた。
「おめえ……」
「いいんだ。これが、さだめだ」
「山へ帰れなくなると、分かってたんじゃねえのか」
「分かってたよ」
ぬりかべは、窓の向こうの夫婦を見た。
「俺は、家族を守る壁だ。それができたんだから、もういい」
また一つ、体の端が崩れ、きらきらと風に乗って流れていった。
「慣れねえことをして、少し疲れちまった。ここらで眠らせてもらうよ」
「こんな都会の真ん中でか」
「あの人たちのそばなら、どこだって俺の家だ」
もう、半分以上の体が崩れていた。
ぬりかべは、ほんの少し笑ったように見えた。
「じゃあな、お二人さん。今回は助かったよ」
ぬりかべの口元が、わずかに動いた。
「どうも、あり——」
最後の言葉は、風の中にほどけて散った。
ぬりかべの体は、すべて細かな塵になった。
塵はビルの谷間を漂い、車の屋根や、街路樹の葉や、名も知らぬ家々の窓辺へと、散り散りになっていった。
もうすぐ寒い冬が来る。
