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「子ども時代が充実するために必要なこと」(物語の体験と充実感が記憶を支えているのです)

現代人が簡単で便利な機械の普及で失ったのは「時間の体験」です。それは「物語の体験」「感覚の体験」「感情の体験」を失うことです。それはつまり、「記憶」を失うことでもあります。記憶が心の中に生き生きと定着するためには、「物語の体験」「感覚の体験」「感情の体験」が必要だからです。
だから、簡単で便利になったのに、いやそれ故に「充実感」は失われ、「充実感」が失われた故に記憶も残らないのです。

それまで一時間かけてやっていたことを、ボタンをピット押すだけで出来るようになったら59分以上得したことになりますよね。
でも本当は59分以上損してるのです。何を損しているのかというと、「感覚と思考とからだの体験」と「物語の記憶」です。だから何も学べないし、充実感も感じないし、記憶にも残らないのです。

結果だけがすべての大人にとってはそれでもいいのでしょうけど、「感じ、考え、行動する能力」と「想い出」を育てている最中の幼い子ども達にとっては、これは致命的なんです。それらの能力が育つために必要な材料が消えてしまうのですから。

「感じる能力」が育つためには「感じる体験」が必要です。「考える能力」が育つためには「考える体験」が必要です。「行動する能力」が育つためには「行動する目的」と、実際に「行動する体験」と、「それに伴う喜び」が必要です。「想い出」が育つためには「感覚や感情とつながった物語の体験」が必要です。

「物語の体験」とは「過程の体験」のことです。それが「想い出」として残っていくのです。

例えば、お料理を、材料を買うところから、材料を処理するところから作れば、出来上がるまでの過程が全て「物語」になります。でも、「ピッ」だけでは「物語」になりません。それは「子育て」でも同じです。

「ザリガニを何匹捕まえた」という結果ではなく、「どのようにしてザリガニを捕まえたのか」という過程が記憶として残っていくのです。
ですから、「自分で森の中に入ってカブトムシを捕まえた記憶」は残りますが、「カブトムシを買ってもらった記憶」は残りません。それが「世話をした記憶」とつながれば、「買ってもらった記憶」も残りますけど・・・。
また、それらの体験は「子ども自身の意思に基づく能動的な体験」である必要があります。「大人に押しつけられた体験」は子どもの内側に入って行かないからです。

「自分の意思でやった活動」は記憶に残りますが、「言われて嫌々やった活動」の記憶は残らないということです。

だから子ども達には、便利や機械や道具に依存しない「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分のからだを使って色々なことにチャレンジする遊び」が必要なんです。そのような遊びが「子どもの能力」を育てるとともに、「子ども時代」を充実させてくれるのです。

昨日も書いたように、今、子育ての講座などで、お母さん達に「子どもの頃の想い出」を聞いても、あんまり覚えていない人が多いです。悲しいことに、「子ども時代」が消えてしまっている人が多いのです。だから、子どもの気持ちが分からないし、子どもと視点を共有できないし、子どもに共感できないのです。そういう状態のお母さんにとって「子育て」は「義務」であり「苦しい労働」に過ぎません。そのようなお母さんに育てられている子どももまた苦しいでしょう。

でも、便利な機械がそれほど普及していなかった時代に育った人や、子どもの頃それほど便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人に「子どもの頃の想い出」を聞くと次から次へと「想い出」が出てくるのです。
便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人の方が、「子ども時代」が充実していたようなのです。

現代人は「結果」ばかり大切にして「過程」を無視しますが、人の記憶は「過程」によって創られるのです。
「充実感」をもたらしてくれるのも「結果」ではなく「過程」です。なぜなら「過程」はそのまま「物語」でもあるからです。山登りでも、頂上に立ったから充実感を感じるのではなく、長い時間をかけて自分の足で登ったから充実感を感じるのです。
山登りが好きな人は「頂上に至るまでの物語」が好きなんです。感じる能力、考える能力、行動する能力が育つのも、ちゃんと過程を体験するからです。

「人生」の中身は「どう生きたのか」という過程です。「何歳まで生きたのか」という長さではありません。そして「充実した人生」を送って来た人は死を恐れないのではないかと思います。「生まれてきた目的」を達成したのですから。それに対して、「空っぽの人生」を送ってきた人ほど死を恐れるのではないかと思います。

そしてこれは勉強でも同じです。大切なのは「1+1=2」という式を覚えることではなく、「1と1と足すと2になる過程」を体験することなんです。
その過程の体験があるから「1+1=2」を理解することが出来るのです。理解することが出来るから「1+1が2なら、2+1は3だよね」と自分の頭で考えて導き出すことが出来るのです。また、色々と応用することも出来るのです。それに対して、結果を覚えただけの子は自分の頭で考えることが出来ないので応用できません。

勉強などでも、「色々な学者達が発見した結果(知識)」だけを学ばせる方が効率的かも知れませんが、「色々な学者がその結果に至るまでにたどった過程」を再体験させる方が、子どもの能力は育つのです。

本当に子どもの育ちを支えたいと思うのなら、幼稚園や小学校は、みんなが学者や芸術家になって、「発見する喜び」、「創造し、表現する喜び」を体験する場であるべきなんです。
でも実際には、「出来上がったもの」を覚えるだけの場になってしまっています。そこに喜びはありません。中身もありません。だったら行きたくなくなっても当然です。

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