Capability of Empathy (掌編)
——たしかにあなたはわたしの話を聞いてくれる。でも、わたしはあなたの考えていることが時々分からなくなるの。だからあなたが本当にわたしの話を聴いているのか、不安になって、もう耐えられない。ごめんね。だからもう一緒にいられない——
僕は、この言葉を呪いのように引きずって生活していた。もう5年も前のことだ。僕は彼女のことを理解しようと努めていた。だがどれだけ時間をかけても本当に理解することなどできないのだから、分からないのは、むしろ自然なことではないか、と今でも思っている。
おそらくそういうことではないのだろう。
彼女が発した声が今も僕の心の奥の方にこびりついていて、時々疼く。
僕はこれからも、誰とも分かり合えないのだろうか。
話を聞く。僕の場合、自分から話す事が苦手だから結果的に聞き手に回ることが多い。要するに成り行きで聞いてはいるのだが、本当に聴いている、ということではないのかもしれない。だからといって話を聴くためにどうすればよいのか、僕には皆目検討がつかなかった。
肌寒くなった土曜日の午後、今日も僕は孤独の世界を散歩していた。5年前に別れを告げられた竹田ビルの1階の喫茶店は、昨年、おしゃれなスパイスカレーの店に変わっていた。オシャレすぎる内装に尻込みし、まだ一度も行ったことはない。ふとフロア案内板に目をやると、ビルの3階にあたらしいテナントが入っていた。そこには「こえ研究所」とあり、どんな研究所なのか気になって薄暗い階段を登ると、受講第1期生募集と張り紙があった。しばらくながめていると、安田と名乗る男がでてきて、「いまから簡単な説明会をしますので良かったらどうぞ」と話しかけてきた。初対面の人間に対してはいささか勿体無いくらいの笑顔で接してきたが、このビジネスの世界ではそういうものなのだろうか。特に用事もなかったので、安田の後についていった。中に入ると、スクリーンの前にパイプ椅子が10脚ほど用意されていて、すでに7人が着席していた。椅子の上にはパンフレットが置いてあった。僕は空いていた一番後ろの席に座った。
時間になると、安田が講師の紹介を始めた。すると「共感士」という聞いたことのない肩書きの多聞佳代子という40代くらいの女性が登壇した。
多聞は開口一番「あなたは、自分の内なるこえ
を聴いていますか?」と尋ねた。
話を聴くというのは、お互いの魂の交流なのだと言った。つまり自身のこえを聴くことをおざなりにしてしまっては相手の話を聴くことは、到底できないということらしい。
「いいですか、話を聴くということは、共感するということです。共感するために必要なのは、まず自分自身のこえを聴き、理解するということなのです。そして、自身のこえ、魂を相手に差し出す、そして相手からもそれを受け取る、それが大事なのです。共感する、ということは同時に共感される、ということであり、それは切り離すことができないものなのです。この講座では表面的な相槌の仕方や傾聴のスキルを学ぶものではありません。
まずは、自己分析を徹底的に行い、他者に差し出すための「こえ」や「魂」を磨いていきます。次にそれを基にグループワークを通して相手の「こえ」や「魂」に耳を傾けて共感し、そして、同時に共感されることを目指します。これらによってより深い人間関係を築きあげることを目標とした、まったく新しいメソッドなのです。「こえ」とは、もちろん「voice」のことなのですが、同時にCapability of Empathy の頭文字を取った私の開発したメソッドでもあるのです。」
なるほど、さっきから「こえ」といっていたのは、「coe」だったのか。頭文字でそれらしいことを表現するのは苦手だ。パンフレットをみると、たしかに「coe」とあった。
多聞先生に代わり、今度は安田が事務的な話を始めた。
入会金は、本来であれば3万円だが、今申し込むと無料、全12回の講座で、24万円。さらに、多聞先生の著書『人間関係はcoeが10割』がもらえるとのことだったが、多聞先生も安田も終始ニコニコしており気味が悪くなって、このタイミングでこっそり抜け出した。なぜだか分からないが、電車の窓付近に貼ってある男性の写真が載った、運が良くなる本の広告のことを思い出した。
多聞先生の声は自信に満ち溢れているがどうにも好きになれなかった。声には人相が出る。それは隠すことができない。だが、多聞先生の言う、「共感される」という視点は確かに僕に欠けていることかもしれない、と思いながら竹田ビルを後にした。
帰りの電車で、声といえば、落語だろうと思い、桂歌丸師匠の「火焔太鼓」を聴いていた。人を包み込むような、まあるい声。歌丸師匠の声も、もちろん自信に満ち溢れているのだが、それはヒトの核のようなもので、表面に直接あらわれるわけではない。
coeのメソッドはそれきりになったが、以降、僕は、自分の差し出せるもの、共感される、とは一体何かということを考えて過ごすようになっていた。(了)
今回のお題は「こえ」、形式は何でも良いとのことだったので、普段あまりかかない創作(掌編)にしました。
こんな感じでお題があるたびに、創作も少しずつやっていこうと思います。
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