子育て環境の理想と現実。「理想を追って何が悪いの?」
オルタナティブスクールの案内を見かけるたび、
いいな〜〜! 我が子を通わせたい!!!(何なら自分が通いたい!!!)
なんて羨ましく感じている親が私です。子どもは私立のモンテッソーリ園を経て、現在は公立の小学校へ通っています。
もしも私がシングルだったら、あるいは子どもがいなかったら(???)、きっと迷いなく教育移住していたと思います。自分自身の学びに対して、独身時代そうであったように。かつては「この場所で学びたい!」と直感したら、国内外問わずあっさり引っ越すような生活をしていました。
けれど、今はしっかり結婚していて夫がいて、子どももいて、独り身のときのように独断で身軽に引っ越すようなことは不可能に近くなり。ある意味で不自由ですが、自由を追求したうえでの幸福を伴った重みだから、それもまた一興。として受け入れています。そもそも家族がいるからこそ、子どもの教育に思い悩むわけで。「悩める」ってある意味では、究極の贅沢。
ただ、それとは別に、「いいな〜〜!」と感じることは、さすがに私の自由だよね!? とも。
「児童期以降のモンテッソーリ教育が面白くってね…!」
ある日夫に熱弁したところ、返ってきたのは
「学ぶのはいいけれど、今通っている公立小学校を否定するようなことは子どもに伝わらないように気をつけて。親の教育観は、無意識レベルで感じ取られるものだから」
話の腰を折るような忠告でした。もちろん大事な観点ですけれども。
そのあたりに関しては(夫の度重なる助言もあり)気を使っていて、「小学校、楽しそうでいいね!」とポジティブな場所であることを前提として接するようにしています。「学校なんか行きたくない!」と子どもが泣くときは、さすがに「そうなの…」と寄り添いますが。「だよね!分かる!行かなくたっていいよ!」なんてことは言わないし、「あのね、学校は行かなきゃいけないところなの。行きなさい!」も言わない。子どもの「じゃあ、どうしたい?」を見つけられるように、あくまで中立に。
とはいえ、「じゃあ、どうしたい?」の受け皿を広くもつためにも、親側が理想を追うことは「子どもにとって悪いこと」では決してないと私は思っていて。たとえそれが、現実とはあまりにかけ離れていることでも。
オルタナティブスクールに通うことが(今のところ)現実的でない理由は、私たち家族が身を置いている住環境が、あまりに理想的すぎるから。
この生活も、少し前までは「夢のまた夢」だったんです。
ひとつ前の住まいも「いい生活拠点が見つかったね!」と家族で喜んでいた…のですが、暮らしを重ねるうちに「これがイヤ」「もっとこうあってほしい」「理想としてはこんな感じ」というポイントが見え始めて。「そんな生活、億万長者にでもならないかぎり無理だよね?」と話していたところ、ひょんなことから叶いました。最短ルートで。
「家族の住環境全般」と「子どもの学ぶ環境(≒学校単体)」とを天秤にかけたとき、圧倒的に重みがあるのが前者なんです。今のところ。子ども時代の幸福の土台は、安定した家庭にあると思うから。
「置かれた場所で咲きなさい」、たしかにそれは一理ある、けれど。
咲いて萎れて、綿毛になってふわりと飛んでいくたんぽぽのように。いったんその場所に根を生やしたとしても、風向きのいい日に綿毛を広げれば、かぎりなく理想的で、ベストでジャストな場所に運ばれるんじゃないかなと、これまでの人生を振り返っても思います。
「現実」のイヤなところは取り繕わずにイヤだと認識して、「理想」の素敵なところは素直に素敵だと認めてさえいれば、きっと道は外れない。「ないものねだり」に偏らないように「足るを知る」ことは心に留めつつ、望むことは諦めない。そんなスタンスで、もうしばらく学びと迷いを続けたい所存です。
