未だに五里霧中の中に。私の安部公房の道程は大工の助けが必要だ。
安部公房
砂の女
ずっと投稿出来なかった本。
面白さの違和感の正体がなかなか掴めなかった。
今もまだ説明出来ないが、ひとり安部公房祭り最中の大工に呼ばれた気がするので残しておく。
安部公房を次に読むならと色々な方に薦められた。
空想をより現実に迫る作家だと思う。頭では空想の世界と理解しているが、知識と表現で現実にもあり得るのではなかろうかと思うのである。文学というものの面白さを知れる本。
私の初めての安部公房はこちら。
今回の本がこちら。
砂に対する比喩が、人、思考、自然、形、どれにも当てはまる。極限状態に生きるとはこういことだと。現実に起きている事と、頭の中で考え付く行動が人として生きていく中で起こる思考の中の葛藤、行動、挫折、妥協点と順応していく様を文章で表現している。
思想が文章に乗っかって遊んでるよ。
すごい。楽しい。
そりゃ薦めるワケだ。楽しいよこの本。
読みながら想像して、人の可能性まで突き付けてくるけど、エンターテイメントとしても成立してる。
人としての内面を、あぶり出すのが文学なら表現としての文学でありつつ、娯楽が同居している。
こんなことあるのか。
しかし、理解という面でどこか違和感があり、ずっと投稿を出来ないでいた。いつもの読書より不可解な違和感が存在した。落とし込めない。そんな時に、私の読書専属大工がひとり安部公房祭りを始めていて、なんというタイミングかと彼の考察を読み漁っていた。
その中で、私が描く安部公房の違和感の正体とも思える大工の考察に私を響かせるものがあった。彼のこのシリーズは、とても面白い。私はあまり一人の作家を集中して読まないが、これを読んでいるとどっぷり谷崎潤一郎、大江健三郎に進みたくなる。自分なりの結論を導くのなら、そういう読み方もありかもしれない。そして出張先になぜ安部公房だったのか彼への興味がつきない。必然の偶然を感じる。
この中で彼は、三島由紀夫との比較考察で、
安部公房と三島由紀夫は同年である。
彼らの世代では、戦中戦後の価値の逆転に苛まれることは想像に難くない。
三島がそこにフォーカスし、安部がそこから脱却してより高い視座から社会全体のあり様を掴んでいる点は、各々の分析の差異かもしれない。僕は理系人間だから安部公房の分析の仕方が好きでもある。
と、語る。この中の最後の一文。
これだ。文系、理系に理解の違いがあるかわからないが、捉え方の違いが存在するようにも思える。
現実と虚構の境目が私の場合ハッキリ認識出来ないのだ。
もしかしたら、文章を形ある立体的に想像出来るのだろうか理系の方は。
知る事が出来ないのが残念だ。
この本を感じている途中思い描いたことを最後に残しておく。
人間の順応性。そこに居場所を見つけ興味を見いだす能力。それを不思議と思った事はあります。
昔、山で肉体労働に従事していた頃、あまりの過酷さに山すら見たくなくなってしまっていたが、仕事をやるしかない現場に到着すると、不思議と自然の移ろいや生き物の鳴き声などに注意が向き、仕事という大部分の労力から目を背けようとし、一瞬一瞬の感動の方ばかり心に残るようになる。
記憶として残るのは、キツイと思っていた圧倒的な肉体酷使の時間ではなく、一瞬一瞬の時間の方が頭に刻まれている。
これを、不思議だと思った事はあるのだけれど、それを文学として読まされた。
表現としての自由と構成、頭の中の世界に書けない事など何もないと思えた。
頭の中の世界と、現実の世界との繋がりは実に物語だということです。
これを感じた私は、毎日の妄想も捨てたものじゃないと思い、道行く女性をあ、キレイな人。話し掛けられたりしないかな。と思うのは物語の始まりということだと思えた。なぜか自信をいただいた。
結論は、それこそ無数にあるのだ。
毎日、出会っているかも知れない。きっと向こうのキレイな女性が話し掛けられないだけだろう。
そう思えば、幸せな一日になりそうだ。
あー。面白い本読めた。
なんのはなしですか
好き嫌い別れるのだろうか。
これだけ現実と虚構の間を表現している作品になかなか出会えない気がするのは、私が全然読んでいないのか、的外れなのか。
とりとめのない感想も現実と虚構の間ということで。
卍丸くん。次は何に進めば安部公房は、寄り添ってくれるだろうか。教えて欲しい。
お後がよろしいようで。
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