イセハラのモトニ 7《創作大賞2025》完
ケーブルカーを降りて、阿夫利神社駅に到着すると、空気の違いを肌感覚で理解することが出来る。それを感じたいと思う気持ちが勝るのかも知れないが、やはり少しだけ、ひんやりと山から降りてくる空気を感じることが出来る。
私達は、ゆっくりと歩き、両脇を固める石灯籠に案内されながら、拝殿まで続く参道を通り、最後の階段を上がることになる。
階段を上がった先には大鳥居があり、阿夫利神社の拝殿が見える。私は階段を上がる前にナオミお婆ちゃんに聞いた。
「ナオミちゃん。階段少しだけ平気かな。手伝うから一緒に上がろう。鳥居をくぐったらもう拝殿だから」
ナオミお婆ちゃんは、上を見上げ、少し微笑んだ気がした。
「もちろん大丈夫よ。ここまで連れてきてもらったのに、ここで帰るって言った方が面白いかしら。そんなこと言いたくもないわ。参拝させてもらってから、じっくり景色をみさせてもらおうかしらね」
手摺に掴まり、あかりに補佐されながら、最後の階段を皆で、ゆっくりと上がっていく。私は、ナオミお婆ちゃんを補佐するあかりを、自然を装いながら補佐出来るようにと、一応あかりの後ろにスタンバイすることには成功していた。
「拝殿の地下入り口から入ると、地下から湧き出る御神水が竜の口から出てる。『神泉』と呼ばれていて、長命延寿と言われてるよ。参拝して汲んで休憩しよう」
シーモンは、大山での仕事も多く、とても詳しかった。情報通なその一面の奥にあるものは、この街に根付いてしっかりと信頼を得ていることを意味している。いったいこの街の秘密をどこまで知っているのだろうか。今度一度じっくり聞いてみたいと私は感じていた。
階段を上がり、大鳥居をくぐり、拝殿を目の前にして私達は揃って参拝した後、地下入り口から入り御神水をいただいた。後はもう景色を見るだけだった。それぞれに思うことがあるだろうが、この時間を噛み締めて語らず、それぞれの区切りをつけているようだった。
拝殿を背にして、再び大鳥居の方へ歩く。もうそこに伊勢原を一望する景色が見えてくる。
ひかりが、まるで独り言のようにナオミお婆ちゃんに話しかける。
「お婆ちゃん。もうすぐだよ。もう見えるよ。着いたよ」
声が涙により詰まっていたが、それを誰かが何を言うこともなく、皆、静かにひかりの言葉を聞いていた。
到着した。
私達は、大鳥居の横の展望スポットからその景色を見ることにした。これで伊勢原が見納めになるナオミお婆ちゃんは、この景色をどう感じるのだろうか。快晴のこの日の抜群のコンディションにより、相模湾に浮かぶ江ノ島や、三浦半島まで見ることが出来た。
「山の湘南だけあるよね。伊勢原もほら、一応湘南だからね。海までしっかり見えてよかったね」
セイセイが、ナオミお婆ちゃんに優しく語りかけた。ナオミお婆ちゃんは、しばらく何も言わなかった。私はその姿にもう感情を堪えるのもキツかった。自然と涙が溢れそうになるのを我慢して、物語の最後の仕上げにかかった。
「ナオミちゃん。そろそろ秘密を明かそうか。私はずっと考えていたんだ。ナオミちゃんの名前の由来。いったいどこから取ったのだろうって。好きなヒロインから取ったって前に言ってたじゃない。それは、きっと私が知っていることを指していると思ったんだよ。だから自分の本を読み直した。探し当てるのが楽しかったし、とても寂しかったりもした。そんな読書は今までしたことなかったしね。そして、見つけた。もっと最初から気付くべきだったんだよね。最初から谷崎潤一郎だったんだ。『痴人の愛』だね。それを思った時に全てが繋がった。ナオミちゃんのそのキャラクターもね」
「それ、どういう本なの」
セイセイや、シーモン、ひかりも聞いてきた。
読書をしない友人に分かりやすく伝えるには、言葉を極端にまで削ぎ落とすことが必要になる。
「元祖小悪魔ナオミに翻弄され、最初は育てるつもりだった男が、いつしか精神も肉体も逆に飼い慣らされていくという歴史に残る羨ましい物語だ。甘さと支配が絶妙に混ざり合う、大人のゲームだ。もちろん、この解釈には私の希望も性癖も存分に含まれているがね」
「お前の性癖は聞いてない」
ここまで来ても、冷静にツッコミをくれるセイセイが側にいてくれて良かった。
そして私は、満を持して渾身の四つん這いを披露した。
「痴人の愛では、抗えなくなった男性にナオミが馬乗りをするんだ。それが小悪魔的な象徴になっている。ナオミちゃん。私に座っていいよ。施設に行ってさ、この写真見せて自慢しちゃいなよ。私は今でもナオミのようにこうやって振る舞えるのよって」
四十歳を超える男が、涙ぐみながら四つん這いになり、座ってくれと懇願する姿とは一体なんなのだろうかと頭の中では分かっていても、私のカラダは止められなかった。
「なるほど。では、ナオミさん。俺も小悪魔的お嬢様に厚焼き玉子を食べさせてあげる」
セイセイは、ナオミお婆ちゃんを誘導し、私の背中へ座らせ、横に立て膝をつく形で厚焼き玉子を用意した。シーモンとあかりは、笑いながら撮影している。ナオミお婆ちゃんは、きっと笑顔だ。
「セイセイくん。ありがとうね。とっても美味しいわ。何から話そうかしらね。ヨッキちゃん。まず、秘密からにしようかしらね。そうね。あなたの言う通り、痴人の愛からのナオミの解釈でも間違いないわ。こんなお婆さんを捕まえて小悪魔とはよく言ってくれたけど、そういうキャラクターよね。また読みたくなるわね」
ナオミお婆ちゃんは、いつもよりも、どこかハキハキ喋っていた。
「だけどね、秘密というものはね。相手が疑ったら、こちらが意図せずとも、それだけで秘密が出来上がるのよ。不思議よね。わかるかしら」
私は答えに困り、何を言うべきか分からなかった。
「つまりね、私の本当の名前も『ナオミ』なのよ。私は最初から嘘なんてついてないの。ヒロインから名前を貰ったと、昔からかわれたりしたわ。だからそれも嘘ではないの。多少演技したけどね。あなた自信満々に見当違いな話をしたりするじゃない。見てるとつい面白くなっちゃってね。ごめんなさいね。あなたは直線的過ぎるのよ。前にも言ったでしょ。思慮深くありなさいってね」
笑みを浮かべながら話すナオミお婆ちゃんは、とても素敵な声をしていた。
「本物の小悪魔だな」
私は心の底からの声が出た。
「それは秘密にしといてくれると嬉しいわ」
ナオミお婆ちゃんがおどけて言う。
「小悪魔が食べる秘密の厚焼き玉子だな。あっ。秘密の厚焼き玉子って商品名にしようかな」
「セイセイ冴えてるな。それ、いいと思うぞ。週末しか出会えない秘密の厚焼き玉子」
シーモンが笑いながら答えた。
私も笑いながら、ほんの少しの悔しさに、哀しさを滲ませながら最後の質問をした。
「ナオミちゃん。やっぱり最高に面白いよ。最後まで手のひらで転がしてくれてね。寂しくて悔しいなぁ。うまく伝えられないよ。じゃ、このはなしを一緒に仕上げようか。俺達は、このはなしに結末が欲しいんだ。最後に聞かせてよナオミちゃん。この景色は、どう見えるかな」
じっくりと噛みしめながら、その景色を見ているように感じ、深く深呼吸をした。その一言、一言をナオミお婆ちゃんは、ゆっくりと言葉を選んで紡ぎだした。私は、ナオミお婆ちゃんの言葉が大好きだ。
「今日のことを話しても、誰も信じてくれないかもしれない。そう思うくらい素敵な一日でした。皆さん本当にありがとう。何度ありがとうと伝えたか分からないわ。ひかり。あなたが優しい子で、お婆ちゃんは本当に幸せよ。あなたにしか出来ない方法で私を楽しませてくれてありがとう。シーモンさん。初めましてで、ここまで温かさを感じたのも私は初めてです。ありがとう。それからセイセイくん。取り戻した『はるか』さんに会えなかったのは残念だけど、あなたといると笑顔になれるのよ。本当よ。これからも美味しい厚焼き玉子を作って欲しい。あなたの厚焼き玉子にはきっと何かあるわ。それが何かわからないけれどね。だから秘密の厚焼き玉子ね。食べたら幸せになるのよ」
ナオミお婆ちゃんは、私達、一人一人にゆっくりと真剣に言葉を紡いで続ける。
「で、ヨッキちゃんね。あなたにどの言葉をかけるのが正しいのか私はわからない。でもそれはダメね。あなたには、しっかり私が思うこと、本当のことを伝えようと思うわ。景色。この景色ね。たぶん一生忘れないとか最高の景色だとか言えば良いのだけどね。それは言えないわ。私はたぶん、これからどんどん忘れていくのよ。それは決まっていることであって、抗うことではないわね。私は、あなたより長い時間を歩いてきたの。何が起こるかは誰も何も知らないけれど、順番で行けば私が先にゴールするのよ。でもね、私やあなたが生まれる前からある『本』というものを橋渡しに、時間を行き来して過ごしたあなたとの時間は本当に楽しかったのよ。ヨッキちゃん。あなた、まだまだ読みなさい。読んで読んで私に追い付きなさい。読みきれない作家達がいっぱいあなたのそばにいるわ。そしてもっと色んな人達と出会いなさい。私は、私の番が来たから、あなたに渡したと思っているわ。いずれあなたも繋げなさいね。あなた達と今日ここに来れたこと。忘れないと言いたいからね。だから例え忘れても、忘れてないと言い張ることにするわ」
私は、自然と流れる涙に抵抗するのはやめた。
「ナオミちゃん。感謝してもしきれないけどね。やっぱり寂しいよ。読書友達が出来て、いっぱい教えてもらえて本当に嬉しかった。一つだけ言わせておくれよ。もし忘れていくなら、忘れてしまってもいいように私が書き記すよ。私は、作家みたいに物語は書けないけれど、思想や想いは残せるだろう。それを書き記して、もしかしたら誰かが読むことで、記憶を繋ぎ、思い出してくれるかも知れない。そしてそこからまた、新しい何かが生まれるのかも知れない。人の秘密ほど、読みたくなる、知りたくなるのが人間だろうからね。だから、必ず私とあなたの物語を書いて繋ぐよ」
私は考えもしないことを言っていた。それは、言わされたのかも知れないけれど言っていた。それが何だったのか忘れてはいけないのだろうけど。忘れていってしまうのが人間だとしても確かに感じていた。
セイセイが、ナオミお婆ちゃんに耳打ちした。
「はるかのことだけどね」
ナオミお婆ちゃんは、今日一番の笑顔を見せた。
「なるほどね。あなたもなかなかね。セイセイくん。やっぱり人の秘密は多くて、ここぞって時に出すのが一番面白いわね」
私も、今日一番の大きな声をだした。
「そうだナオミちゃん。私もサヨナラは言わない主義なんだ。またね」
「カッコつけてるけど、四つん這いだからな」
シーモンがしっかり私を拾ってくれて、号泣中年による、このバカげたはなしにきちんと結末がついた。
ナオミお婆ちゃんは伊勢原から去った。私の読書友達は、この街からいなくなった。変化したことと言えば、四つん這いの号泣中年と秘密の厚焼き玉子。とSNSにアップされた写真が話題になり、私達のマンガ文学喫茶風なお店元2はイケメンが焼く厚焼き玉子が、「週末しか出会えない秘密の厚焼き玉子」としてブレイクした。忙しくなったお店に、時々ひかりが手伝いに来るのも変化したことだった。彼女とセイセイはどこか怪しいが、深く考えないことにした。考えられるほど心に余裕がなかった。
私は、傷心していた。
「なぁ。ヨッキ。新作メニューを考えたんだ。いつまでも厚焼き玉子に頼ってばっかりはいけないだろ」
私は、まさかセイセイが厚焼き玉子しかないことを気にしていたとは思わなかったが、セイセイなりに、次へ進む覚悟なのかも知れないと思って聞いていた。
「秘密の厚焼き玉子の親戚になる。これが幻のだし巻き玉子だ。これはお店での飲食のみの限定メニューだ」
幻のだし巻き玉子の表面はほどよく焼かれて、ほんのりと香ばしさを纏いながらも、中は信じられないほど瑞々しく、じゅんとした艶が光っていて、作品みたいだった。
「この店がどこに進もうとしてるのか知らないが、悪くないね」
私も、進もうと思った。
「そうだ。セイセイ。新しい読書会だがね。ふと気付いたんだ。四十歳を超えての四つん這いは、私に最高な閃きをくれたんだ。私は、乱歩に近付けるかも知れないってね。というわけで、次の読書会は『江戸川乱歩の人間椅子に実際なってみたら、その全てが知れるかも知れない』だ」
「この店がどこに進もうとしてるか知らないが、悪くないね」
セイセイが、笑って言っている。
そして今日も、進むことを知らずに止まりっぱなしのDJチャンによる、空元気な声が響いている店内に、またしても、黒髪のサラサラがとてもキレイなお姉さんが入ってきた。
「あの、すみません。このお店ってイケメンが作る厚焼き玉子が美味しくて、文学かぶれが作家に憧れ始めて、手に負えない中年がいるお店ですか」
予想外の第一声だったが、「サラサラ」と口に出しながら、文学かぶれが作家に憧れ始めて、手に負えない中年として私は、読んでいた夢野久作を机に置きながら、「オホホホホホ」と同じように笑いたくなるのを押えて、座るだけで創作が生まれる席から立ち上がった。
「やぁ。いらっしゃい。まず君に言いたいことがある。いいかな。黒髪のサラサラがとてもキレイだとね。それともう一つ、秘密の厚焼き玉子だけじゃなくなって、今日から新メニューの幻のだし巻き玉子も出来たんだとナオミちゃんに伝えておくれ」
「あはは。初めまして。さすがヨッキさん。ナオミさんの言ってた通りですね。これを渡してくれって頼まれました」
黒髪のサラサラがとてもキレイなお姉さんは、私に谷崎潤一郎の「鍵」の古書を渡した。中にメモが入っている。
黒髪のサラサラがとてもキレイなお姉さんに、セイセイの厚焼き玉子と新作のだし巻き玉子を出して、くたびれたソファに座ってもらい、私は、そのメモを読んだ。
「私は私の物語を書こうと思うわ。ヨッキちゃん。どうかしら、このはなしで別々の物語を作って交換していくのは。あなたの物語が出来たら『鍵』に挟んで渡してちょうだいね。それとね、せっかくだから、あなたにはお土産の秘密を一つあげることにするわ。『ひかりはワケありの人の妻よ』ナオミより」
私は、メモを読み、自然と笑顔になるのを押さえながら「この小悪魔め。読みきれないくらい書いて送ってやるわ」と誓った。
「あの、私ナオミさんに言われてここのお店に来たんです。ナオミさんに、二人に話してみなよって言われました。こんなことを突然言うのもおかしいんですが、このお店って本当に『秘密』を大事にしてくれますか。私、実は話したい『秘密』があるんです」
黒髪のサラサラがとてもキレイなお姉さんは、私達にそう告げた。私とセイセイは目を合わせこう言った。
「それには、譲れない条件が一つだけあるんだ」
完
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