冷やし中華の終わり方
あれは、夏の終わりに差し掛かった頃のことだった。なぜ今その日のことを思い出すのかといえば、今年の夏が今日、はじまったからに他ならない。
私は、午前の現場が終わり、昼食を食べる準備に入っていた。私の心が昼食を食べる準備に取りかかると、心もカラダもどうしたって全て昼食仕様になってしまう。普段の私ならば、不純な邪念ばかりを思い浮かべながら、フラフラフフフの効果音と共に生活しているのだが、この時間だけは、昼食に全てを注ぐことを自分自身に認めてあげている。
この症状を、昼またぎの情事と私は呼んでいる。
一日のうちに、心もカラダも昼食だけになってしまう時間を許せない自分もかつては存在していたのだが、なかなかこの情事には勝てないことを四十年以上生きて悟った。それだけの魅力と満足感、そして幸福感に何度も襲われているからだ。それならばと、こちらから昼食のことを愛でることに決め、目一杯に考え尽くし、食欲とのデートで情事を満たす代わりに、午後の私はめちゃくちゃ不純な男になっても良いと自分自身と契約している間柄だ。
この日の現場は、馴染みのない土地だったので、どうせなら入ったことのない地元に根付いていそうな町中華屋さんに入ることにした。根付いているのかいないのかは、実際には分からないが、私がそう思ってさえいれば、お店だって喜ぶと知っている。相思相愛が私の昼食だ。
こじんまりとした店内は、赤いカウンターと木目調のテーブル席が二席だった。店内は、昼食を食べるには少し遅い時間ということもあり、テーブル席には、男性の一方的な片思いと見られる男と、長い髪を一つに後ろで束ね、うなじと共存することで輝く、魅惑の肌を魅せる後ろ姿の女性二人が座っていた。実際にはカップルなのかも知れないが、男の一方的な片思いだとした方が、私にもチャンスがあるかも知れないと思えるので、大抵の場合そう思うことにしている。その二人以外に店内にはお店の主人を除いて誰も居なかった。
私は、テーブル席の女性の隣に座ろうかと悩んでいたが、相席にはまだ早いと考え直した。どうせなら食欲が満たされた私になってからの方が話の展開はスムーズだと思い、せめて何かあった時に女性を守れるためにと、会話に参加出来る距離のカウンターに座った。
テーブル席の女性からは、斜め後ろの位置にいる。
私は、メニュー表を見るフリをして、カラダを半分だけ女性に寄せて、女性が何を食べているのか、細い目をさらに細くして目視した。こういう時に私の細い目は役に立つ。
女性は、唐揚げ定食を美味しそうに食べていた。その背中越しからでも、一口噛めば、表面がガリッと割れて、中から熱い肉汁がじゅわっと溢れ舌の上で、サクッとジューシーが追いかけっこしている様子が手に取るように分かった。
唐揚げのサクッとした食感が分かるので、私はサクッサクッと彼女に合わせるように、頭の中でサクサクコーラスを奏でながら、彼女の後ろ姿を見つめていた。そして、細い目の男には大抵備わっているのだが、細い目は背中越しでも、その表情までハッキリと把握出来るから、とても役に立つ。細い目を持つ男は透視が出来るから細い目を持っていても何も損はないと感じる。
「(彼女と同じ)唐揚げ定食ください」
本当は、夏をまだ感じたくて「冷やし中華」にしようかと思っていたのだが、心の中で「彼女と同じ」と叫ぶことで、これは私と彼女の情事として、同じ舞台に立つことをアピールしたことで、彼女も私を意識することを願っていた。
私の情事は、はじまりを告げて、夏はまだ終わらないと言い聞かせていた。
お店のドアが開き、一人の男が入ってきた。私と同じ、現場仕事の様子だったが、本当に現場仕事なのかは分からない。昨今の現場仕事モテブームの中で、私服に作業着を選ぶ男性が多いからだ。
私だって、もしかしたら現場仕事ではないのかも知れない。
「冷やし中華ある?」
「ないです」
会話は、それだけだった。男はそれだけを聞くと店から出て行った。たった一言の会話だったのだが、冷やし中華がお店にはないという事実が、一瞬にして店内を通り過ぎていった。
「冷やし中華ないんだ」
女性が、独り言のように呟いていた。その一言は、店内に重く響いた。
私は、ついさっきまで「冷やし中華」が在るものとして、唐揚げ定食を注文したのだが、「冷やし中華」が無いと知った今、「冷やし中華」に無性に会いたくなっていた。在ると思っていたモノが急に無いと知ると、人間は途端に欲しくなる生き物だった。
「あの人、あと何件回るんだろ」
女性は、「冷やし中華」と叫んだ男性に心を奪われているようだった。私は、なぜさっき「冷やし中華」と注文して「ないです」と店の主人に言われる選択をしなかったのか、無性に後悔していた。
唐揚げ定食と言ってしまった自分の意思の弱さを突き付けられている気分だった。仮に、私が「冷やし中華」を店の主人に断られていたのなら、「冷やし中華ないんだ」と言った女性の方から私に話し掛けてくれることになり、会話という花が咲いたのに、大事なところで選択を間違え、女性に寄せてしまう優しい自分自身が嫌になっていた。
冷やし中華は、ない。
この事実を噛み締めながら、彼女の口元に近づいた唐揚げが、音もなく消えるたびに、私は同じものを選んだ男としての無言の連帯を感じていた。口に入れたその瞬間、彼女が見ていないことを祈りつつも、どこかで見ていて欲しいと願ってしまっていた。情事は、失敗したことを悟られないように、私はサクサクと唐揚げの音学を奏でていた。どうにか自分を励まそうと仮に、冷やし中華が在った場合を想像してみたが、想像上の冷やし中華にはトマトが乗っていて、私はトマトが好きではないので、食べなくて正解だったじゃないかと自分を励ますことに成功していた。
私は、唐揚げを食べながらも、携帯で「近くの冷やし中華」と検索をしていた。
検索画面には、このお店とトマトが乗った冷やし中華の画像が出てきた。
きっと、あの男性も調べたのだろう。そして、トマトが乗っている冷やし中華をあの男性は欲した。最初から好みが違ったのだ。焦ることはなかったと思えた。そう思うと、夏をあきらめない男性を応援したくなり、きちんと冷やし中華に出会って欲しいと画面越しにエールを送った。
私は、男性にエールを送るつもりで、唐揚げ定食を冷やし中華のように早く食べることに専念し、唐揚げも啜れるのか試したが、噛んだ方が早くて麺には、麺の理由があることを知った。
私は、女性より早く食事を終え店を出ることにした。
私は、店の主人に唐揚げ定食が美味しかったとお礼を伝えてから、一言だけ聞いてみた。
「冷やし中華は、終わったんですか?」
「ええ。夏は終わりです」
その瞬間、後ろ姿の女性の笑みが私にはハッキリと見え、冷やし中華と共に夏の終わり、そして情事の終わりをも知った。
なんのはなしです華
この日の昼またぎの情事は、満腹と引き換えに、はじまれば終わることを知り、夏の終わりも知ることになった。
冷やし中華は、はじめるから意味があるということを知った。これを、夏がはじまった今、あなたへと伝えたい。
冷し中華と夏を感じながら読むと良い一冊。
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